中国史や三国志のネット記事の出典の確認はどうしているの? ネット検索だけによる確認方法を紹介
- mamesiba195
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Wikipediaの馮毋択項目についての内容ですが、中国語版wikipediaから翻訳したものがとられたようですが、何重もの過ちを犯した構図になっています。中国史の記事において出典を考える上の参考になると考えて、ここで解説します。#wikipedia pic.twitter.com/blOO0znXjk
2020-01-13 00:39:05この内容については、ここで記事にした上で、特に問題がなければ、いずれはwkipediaのノートに記載の上、改変しようと考えています。 ja.wikipedia.org/wiki/%e9%a6%ae…
2020-01-13 02:38:07なお、これが中国語版wikipediaの冯毋择(日本語では馮毋択)の項目です。項目立てしたのが2017年で日本のものより、2年先になります。 zh.wikipedia.org/wiki/%e5%86%af…
2020-01-13 02:38:07まず、馮毋択について、概略については青線になっている前漢に仕えたという話の由来が分かりませんでした。馮毋択の事績は正史では、『史記』始皇本紀、『漢書』馮奉世伝の記載しかないはずです。これでは青線の部分の事績が分かりません。(二枚目画像『史記』、三枚目画像『漢書』) pic.twitter.com/FzjOhWnVVV
2020-01-13 02:38:11これは中央研究院のホームページの検索により、分かります。検索した内容は確かに漢文ですが、史記や漢書は翻訳もされていますから、該当部分を照らし合わせれば、間違いは少なくなるでしょう。
2020-01-13 02:38:11まず、赤線ですが、これは内容から出典の記載のない正史ではない出土文献によるものと考えました。内容が正史に記載される性質のものではなく、あくまで地方官の問題っぽい内容です。 pic.twitter.com/FjifXmYufJ
2020-01-13 02:38:14『馮毋擇』で検索したら、このページが見つかりました。翻訳が正しいかどうかは分かりませんが、どうやら、この内容の出典は『奏讞書』という出土文献の一部のようです。
2020-01-13 02:38:14なお、『奏讞書』は、1983年12月から1984年1月にかけて出土した文献である張家山漢簡の一部のようです。近年、このように正史を補う内容となる当時の文献が続々と見つかっています。 ja.wikipedia.org/wiki/%e5%bc%b5…
2020-01-13 02:38:15翻訳の内容の正確さはともかく、これで赤字の出典は分かりました。改変の時、出典を明記すればいいでしょう。 pic.twitter.com/OlVPYVf6x5
2020-01-13 02:38:17次は緑字ですが、これは出典が明記され、史記に記載されていることは間違いありません。これは問題ありません。 pic.twitter.com/Bl1ZS2giJe
2020-01-13 02:38:19次は、ピンク字です。これが一番、首をひねりました。これほど、興味深い逸話の話を歴史紹介や小説などで記載されないということがあるでしょうか。また、漢書でも馮毋択は秦将であったとしか伝えていません。 pic.twitter.com/CKXDBYbujI
2020-01-13 02:38:21そこで、出典とされる『漢書』高帝紀をあたりました。そこで、史記にはない、劉邦が魏王の魏豹の配下の武将を自らの武将と比べて評する部分に馮毋択に関する記述があることが判明しました。なお、ここでは、『馮無択(馮無擇)』となっています。 pic.twitter.com/ncxgmN8Kpz
2020-01-13 02:38:23字は違いますが、秦将とあり、『漢書』馮奉世伝の記述と一致しますので、馮毋択と同一人物とみなしていいでしょう。これで、先に紫字の部分の出典は判明しました。もっとも、馮敬が降伏したかどうかはこの記述からは分からないことは留意しないといけません。 pic.twitter.com/ZH0W71aXHp
2020-01-13 02:38:26それでは、『馮無択(馮無擇)』と名で馮毋択の事績が別にあるのかと思い、中央研究院のページで検索をかけました。そこで、『史記』恵景閒侯者年表にその名がありました。このピンクで囲った部分がwikipediaのピンク字の部分と対応するようです。 pic.twitter.com/NxT8D511j0
2020-01-13 02:38:28しかし、問題が発生しました。内容がwikipediaと対応しないのです。ピンクで囲った部分を新釈漢文大系の翻訳を参考にして、翻訳します。
2020-01-13 02:38:29悼武王(劉邦の妻・呂雉の兄である呂沢のこと)の郎中(側近)として、劉邦が兵を初めて起こした時、高祖(劉邦)に豊にて従軍した。雍丘を攻めた時、擊項籍(項羽)を攻撃し、力戰し、悼武王(呂沢)を守った。滎陽の戦いで従軍し、侯となった。 pic.twitter.com/D4SsRcamII
2020-01-13 02:38:31これを見ると、馮無択は元々から呂沢の部下であったように読めますし、豊は劉邦の生まれた地で初期の段階で劉邦の支配下に入った土地で、雍丘の戦い以前のことになります。また、雍丘では呂沢の部下として項羽を戦っています。 pic.twitter.com/9JqzHrfeT6
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