不動国行と光徳刀絵図の正確性への疑問

どうして、天正11年に家康所有となった不動国行が、天正16年、文禄3年、同4年の光徳刀絵図にあるのか?
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アリノリ @a_ri_no_ri

不動国行と光徳刀絵図について(以下、連投注意)

2020-08-14 16:45:34
アリノリ @a_ri_no_ri

不動国行は足利将軍家所蔵の刀とされ、織田信長の愛刀としても知られる。本能寺の変の後には、明智左馬助が入手し、坂本城落城の際に明智左馬助は堀直政に託し、堀秀政を通して、秀吉へと渡ったとされる。秀吉は天正10年10月の信長の葬儀でこの刀を掲げた。

2020-08-14 16:45:45
アリノリ @a_ri_no_ri

『家忠日記』の天正11年5月21日に家康は天下三肩衝の一つ「初花」を羽柴秀吉へ贈るとある。その返礼としてだろう。同年8月6日には、秀吉は津田盛月を家康の元へと派遣して「不動国行」を進上したとある。不動国行が家康に移動した正確な日付は他の史料で分かる。

2020-08-14 16:46:04
アリノリ @a_ri_no_ri

天正11年に比定される9月15日付の本多忠勝の書状に、「去月三日不動国行之御腰物、自羽筑家康へ被進之候、」とあり、9月の書状に去月三日とあることから、8月3日に不動国行が秀吉から家康へと贈られたとなる。上の『家忠日記』とは3日の誤差がある。

2020-08-14 16:46:14
アリノリ @a_ri_no_ri

これは筆者の松平家忠が三河の深溝にいて、家康は遠江の浜松城にいるためだろう。家忠は不動国行が贈られた3日後にこの情報を入手して、6日に記したと思われる。どちらにしろ、家康が天正11年に不動国行を手に入れた事実は、日記と書状の2つの一次史料から「確定」する。

2020-08-14 16:46:23
アリノリ @a_ri_no_ri

刀の贈答時期が一次史料で確認できる事例は希少である。それだけ「不動国行」という刀が、著名だったのだろう。

2020-08-14 16:46:32
アリノリ @a_ri_no_ri

不動国行は、天正11年8月に家康の所有となった。以後、家康が秘蔵し徳川将軍家が継承した。明暦の大火で焼けた後も再刃され徳川将軍家にあったが、現在は行方不明である。 と説明される。実際、家康所有と徳川将軍家の所有は確実である。

2020-08-14 16:46:43
アリノリ @a_ri_no_ri

確実であるのだが、1つ疑問がある。 光徳刀絵図である。 光徳刀絵図は、本阿弥光徳が豊臣(羽柴)の所有刀剣を書き写した絵図(押形)である。これに不動国行の押形もあるのだ。

2020-08-14 16:46:55
アリノリ @a_ri_no_ri

秀吉の所有刀剣だから押形があってもおかしくはないと、最初、スルーしていた。しかし、上の移動時期と石田本の年次を比較して、「え?おかしくないか?」と疑問に思った。 不動国行は天正11年に家康の所有になっているのに、天正16年の光徳刀絵図石田本にあるのだ。

2020-08-14 16:47:05
アリノリ @a_ri_no_ri

石田本は、天正16年極月三日の奥書があり、現状、光徳刀絵図でもっとも古いものだ。石田三成のために本阿弥光徳が書いた刀絵図で、奥書に石田治部少輔殿と宛名がある。それで、石田本と呼ばれる。この石田本に既に家康所有刀剣となっている「不動国行」の押形がある。

2020-08-14 16:47:16
アリノリ @a_ri_no_ri

光徳刀絵図をチェックしたことがある人なら、次に何が言いたいのか、分かるだろう。もっとも古い年月日の石田本だけでなく、その後の光徳刀絵図にも不動国行の押形はある、のだ。 光徳刀絵図は他に毛利本、大友本の原本2、寿斎本、中村本の写本2がある。

2020-08-14 16:47:35
アリノリ @a_ri_no_ri

このうち、不動国行の絵図があるのは、奥書に文禄3年6月14日とある毛利本と、文禄4年5月12日とある大友本、元和元年極月11日とある寿斎本の3つである。 秀吉が不動国行を所有した期間は長くても天正10年6月14日以降〜天正11年8月3日である。

2020-08-14 16:47:46
アリノリ @a_ri_no_ri

本阿弥光徳が秀吉所有の不動国行の押形を描くのは、この一年と少しの間に限られる。光徳刀絵図は豊臣(羽柴)の所有刀剣を記した刀絵図と説明されるが、不動国行の所有は短すぎる。天正16年、文禄3年、文禄4年には家康所有刀剣であり、豊臣の刀ではないのだ。

2020-08-14 16:48:08
アリノリ @a_ri_no_ri

家康が秀吉に臣従した後、不動国行を「進上」した可能性もある。秀吉は家康の屋敷に8回は「御成(おなり)=訪問」をしており、その際に刀剣の贈答は必須である。御成以外でも刀剣の贈答が行われる機会は多い。天正16年に不動国行の所有が秀吉に移っていても不思議はない。

2020-08-14 16:48:31
アリノリ @a_ri_no_ri

ただ、その後、また家康に戻る必要がある。先に書いた通り、不動国行は徳川将軍家の所有刀剣となって、明暦の大火で焼けているからだ。『明暦大火焼失柳営御道具・刀剣目録』に「不動国行」の名があり、名物帳でも将軍家の所有刀剣として記されている。

2020-08-14 16:48:46
アリノリ @a_ri_no_ri

徳川秀忠の『徳川実紀』では家康が関ヶ原で佩刀した刀は不動国行と江雪正宗である。関ヶ原での家康の佩刀はバリエーションがあり、家康と家綱の実紀では菖蒲正宗、水戸徳川では児手柏、尾張徳川と秀康年譜では大左文字と統一されていない。そのため、不動国行佩刀の確証はない。

2020-08-14 16:48:58
アリノリ @a_ri_no_ri

家康の遺品刀剣分配リストである『駿府御分物刀剣元帳』にも不動国行の名はない。ただ、このリストにない家康所有刀剣は多数存在しており、将軍家への遺品刀剣分配が少ない特徴がある。家康が駿府に隠居する際(慶長12年)に秀忠に継承された刀剣が多数あると考えるべきだろう。

2020-08-14 16:49:08
アリノリ @a_ri_no_ri

不動国行が家康から徳川将軍家に継承された可能性は高い。 その場合、家康が秀吉に不動国行を進上したとして、天正16年、文禄3年に光徳刀絵図に記された後、秀吉は没する慶長3年までに不動国行を家康に再び渡す必要性が出てくる。

2020-08-14 16:49:18
アリノリ @a_ri_no_ri

刀絵図に描かれた時に秀吉所有だったとすると、不動国行の移動ルートは信長→明智左馬助→秀吉→家康→秀吉→家康と、秀吉と家康の間を往復移動しなければならない。 江戸時代には将軍家から下賜された刀剣が再び将軍家に戻る事例は多くある。

2020-08-14 16:49:28
アリノリ @a_ri_no_ri

だが、その多数の事例の中でも同じ家や人物との間を「往復」で移動するのは、まだ見たことがない。黒田家→将軍家→前田家→将軍家→尾張徳川家→将軍家と移動した五月雨郷の例からしても、同じ家に同じ刀を続けて贈らないのが通例だろう。

2020-08-14 16:49:48
アリノリ @a_ri_no_ri

不動国行は家康と秀吉の間を反復横跳びのように往復移動したのか、していないのか。 天正16年と文禄3年の光徳刀絵図が、その時点での豊臣(羽柴)の所有刀剣を記しているのなら、往復移動したと考えるしかない。

2020-08-14 16:49:57
アリノリ @a_ri_no_ri

逆に天正16年と文禄3年の光徳刀絵図が、その時点での豊臣(羽柴)所有刀剣ではないとも考えられる。 秀吉は1年程度ではあるが、不動国行を所有していた。その際に光徳が押形を描き、その後も書き写して刀絵図に使用し続けた可能性もある。

2020-08-14 16:50:06
アリノリ @a_ri_no_ri

つまり、 (1)不動国行は家康と秀吉の間を往復移動した。 (2)本阿弥光徳が家康の所有に関わらず、著名な不動国行の絵図を再利用し続けた。 の、どちらかになる。

2020-08-14 16:50:16
アリノリ @a_ri_no_ri

(2)の場合、光徳は「家康が所有する不動国行」を含む刀絵図を石田三成宛に作った、となり、後の関ヶ原の戦いから見たら、ビミョーな状況ができる。まあ、不動国行は一時的には秀吉の所有だし、天正16年の時点なら家康と三成は対立していないから問題ないだろう。

2020-08-14 16:50:26
アリノリ @a_ri_no_ri

以上のように、不動国行は豊臣(羽柴)所有のような扱いで光徳刀絵図に載り続けているが、秀吉との間で往復移動をしていない限り、実際はとっくに家康の所有刀剣である。

2020-08-14 16:50:38