ソハヤノツルキ(家康の三池)の物語

ソハヤノツルキこと、家康の三池の物語には当初子孫長久の守神の言葉がない。多数の史料を使って、三池の物語の変化を見ていきたい。
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アリノリ @a_ri_no_ri

権現様がお亡くなりになられる前に、三池伝太の御腰物で試し斬りを命じられたこと、枕元に置かれたことの意味について、仏教の教えにはないが、神道の奥秘に至ってはその道理があることを物語りました。

2020-07-28 20:22:22
アリノリ @a_ri_no_ri

『明良洪範』とは流れは同じであるが、幾つか異なっている。日付が16日で、家康が三池の刀を二、三度振っていない。また、メインは家康が「死罪と決まった者がいなければ、試し切りはしなくてよい」と言った部分にあるような書き方になっている。

2020-07-28 20:22:35
アリノリ @a_ri_no_ri

『落穂集追加』でも、家康が試し斬りをさせて枕刀とした理由を「神道の奥秘」としている。細部が違うとはいえ、先の『明良洪範』と類似性が高い。恐らく、参考にしているのだろう。この2つには「子孫長久の守り」がなく、家康の行動は「神道の奥秘」とされていて、理由の説明がないに等しい。

2020-07-28 20:22:46
アリノリ @a_ri_no_ri

「子孫長久の守り」に近い内容が出てくるのは、『明良洪範続編』からである。下に該当部分の訳を載せる。

2020-07-29 20:52:16
アリノリ @a_ri_no_ri

御宿越前守を名乗るこの家に伝来する名剣がある。そばえの剣とも御池ともいう。この名刀をのちに理由があって神君(家康)に進上した。(家康は)非常にこの刀を重愛し、元和二年に死去するその日にこの刀で生きた人間の胴を切らせ、その血を拭わないまま枕元に置かれ、

2020-07-29 20:52:38
アリノリ @a_ri_no_ri

神霊をこの刀にとどめ永く国を守らせようとされたことはよく知られているが、この名刀が御宿の出で、長く神前(=東照大権現となった徳川家康の前)に置かれている意味を知る人は少ない。

2020-07-29 20:53:02
アリノリ @a_ri_no_ri

『明良洪範』の続編ではあるが、先の内容とブレがある。「莫耶の剣を模す」と記していたのに、今度は「そばえの剣」とソハヤに近い名称を書いていて、4月1日だったのが死亡する当日になっている。「子孫長久の守り」はないが、「神霊をこの刀にとどめ長く国を守らせよう」がある。

2020-07-29 20:53:13
アリノリ @a_ri_no_ri

この続編が前の『明良洪範』と内容がズレている理由は不明である。続編は「増誉曰」と「増誉(著者)が語るには〜」という信用できそうもない出だしで書かれており、訳した部分より前の内容も不正確である。そもそも「ソハヤ」ではなく「そばえ」と記している点で情報は正しくない。

2020-07-29 20:53:40
アリノリ @a_ri_no_ri

また、徳川家康は4月11日から何も食べられなくなり、17日の午前10時に死亡している。死亡当日の夜だとしても、罪人の試し斬りを支持できるような状態ではなかっただろう。そういう意味で、続編の方がより信用できない内容になっている。ただ、「国を守る」言葉がここで出た。

2020-07-29 20:53:53
アリノリ @a_ri_no_ri

『坂家古日記(坂上池院日記)』では、これが「子孫長久の守神」となる。下に訳を載せる。

2020-07-29 20:54:09
アリノリ @a_ri_no_ri

元和2年(1616年)4月15日(家康様は)都筑久大夫呼び、「三池の御腰物を長く手にした覚えがない、(死刑に)決まっている罪人を切って(切れ味を)ためすように」と言われましたので、久大夫は御腰物を預かり、御次の間まで出たときに、また呼び返された。

2020-07-29 20:54:22
アリノリ @a_ri_no_ri

死刑に決まっている者であるかどうかよく吟味してから、ためすようにとの命であった。久大夫はさっそく(罪人で切れ味を)ためし、御腰物を持って(家康様)の前に出ると、切れ味について尋ねられた。久大夫が申し上げるには、「おそれながら」と剣を差し上げて申し上げました。

2020-07-29 20:54:42
アリノリ @a_ri_no_ri

「手に少しも(切った)覚えがありませんでした。土壇まで切り入り、(土壇に)砂を引きました」と申し上げれば、(家康様は)ご機嫌よく(御腰物を)御手にとられ、二、三度振られて、「この御腰物を子孫長久の守神とする」との命じられ、そのまま(御腰物)を鞘に納められました。

2020-07-29 20:55:00
アリノリ @a_ri_no_ri

(この御腰物は)長さ二尺三寸三分、幅一寸二分半。

2020-07-29 20:55:19
アリノリ @a_ri_no_ri

『坂家古日記』は途中からは確かに「日記」なのだが、家康時代の記述は全て「逸話」である。よって、家康時代の記録は「日記」であっても、全く信用ができない。信用できないのだが、『徳川実紀』でよく引用されている。家康時代の『坂上池院日記』からの引用は注意が必要である。

2020-07-29 20:55:32
アリノリ @a_ri_no_ri

これが『久能記』になると、『坂家古日記』と『明良洪範』が混ざった内容となる。『久能記』は『止戈類纂』にあるが、久能山とは無関係の史料のようで現存しているかどうかは不明。下に訳を載せる。

2020-07-30 21:17:01
アリノリ @a_ri_no_ri

元和2年(1616年)4月15日の晩になって、(家康様は)納戸方の都筑久大夫を呼びよせ、以前から帯刀されている三池の御刀を持って来るように命じられた。直ぐに(久大夫は)その御刀を持って来た。

2020-07-30 21:17:15
アリノリ @a_ri_no_ri

家康様はこの刀を獄屋に持って行き、彦坂九兵衛光正と相談して罪人で死刑に決まっている者の本胴を試し切りするようにと命じられた。直ぐにその御刀を持って御次の間へ出たときに(家康様に)呼び返され、必ず死刑に決まっている罪人がなければ、試し切りをするには及ばないとよくよく命じられた。

2020-07-30 21:17:27
アリノリ @a_ri_no_ri

久大夫が帰って来て、死罪に決定した者がいましたので、御刀でその罪人を斬ったところ、本胴が気持ち良く掌に持っている覚えがないくらい(たやすく)土壇まで落ち、(土壇に)砂引の跡がつきましたとご報告すると、(家康様はその御刀を)御枕刀と取り替えようと手にとられて、

2020-07-30 21:17:39
アリノリ @a_ri_no_ri

2、3度振られ、この良い刀を子孫長久の神にしようと御鞘に納められました。この御刀の長さは2尺2寸ばかりで、込みに「以莫耶之剣之中屋妙傳所持」と彫刻がある。(柄は)黒鮫で赤銅の雉の目貫がある。久能山の神殿に納められている。

2020-07-30 21:17:57
アリノリ @a_ri_no_ri

4月15日と「子孫長久の守神」は『坂家古日記』と同じだが、「以莫耶之剣之中屋妙傳所持」の部分は『明良洪範』の誤りをそのまま継承している。また、目貫を「雉」と記すが、実際は「川烏(カワガラス)」である。この誤りからも久能山とは無関係の書物であったと分かる。

2020-07-30 21:18:07
アリノリ @a_ri_no_ri

徳川家康の伝記である『武徳編年集成』でもこの誤りは続く。以下に訳す。

2020-07-30 21:18:20
アリノリ @a_ri_no_ri

(四月)十五日家康が都筑久太夫を呼んで、三池の刀で長らく切っていないから彦坂九兵衛光正から罪人を手に入れ、これを斬って、切れ心地を知らせるようにとの命令を直に言われたため、その刀を持って隣の部屋に出たところ、再び呼び返され、 罪科が確かな者を吟味して斬るようにとの命令であった。

2020-07-30 21:18:29
アリノリ @a_ri_no_ri

久太夫は早速、罪人を光正から受け取り、これを斬った。お刀を持って直に献上して、実に優れた剣とはこのことです。手のひらに全く当たる感触もなく、土壇まで切れて、砂が引きました、と説明すると、(家康様は)とても機嫌良くなり、刀を手に持って、

2020-07-30 21:19:00
アリノリ @a_ri_no_ri

二、三度、振られ、この良い刀を子孫長久の神とする、と仰ぐべしと鞘に収められて(枕刀として?)置かれた。(この刀は)長さ二尺二寸半で、茎(なかご)に莫耶を模造した、中屋妙傳所持、と彫刻されている。鞘は黒で、赤銅の鶏の目貫がある。後に久能の神殿に収められた。

2020-07-30 21:19:10
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