ソハヤノツルキ(家康の三池)の物語

ソハヤノツルキこと、家康の三池の物語には当初子孫長久の守神の言葉がない。多数の史料を使って、三池の物語の変化を見ていきたい。
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アリノリ @a_ri_no_ri

家康のソハヤ(三池)の所持銘が不正確で、目貫が「鶏」と間違っている。wikiによれば、この『武徳編年集成』は徳川吉宗に献上されている。そのような書物でも三池を所蔵する久能山と情報の確認などをせずに作られていたようだ。

2020-07-30 21:19:26
アリノリ @a_ri_no_ri

同じ著者による『続武家閑談』では、次のように内容自体がもっと削られている。

2020-07-30 21:19:41
アリノリ @a_ri_no_ri

四月十六日(家康様は)三池の刀を町司の彦坂九兵衛に命じて罪人を斬らせてから、榊原照久に預けられた。久能山に収めるべきとのことであった。

2020-07-30 21:19:51
アリノリ @a_ri_no_ri

『明良洪範続編』でもそうであったが、著者が同じでも日付が違う。これは15日の晩を16日と解釈しているのかもしれないが、史料によって、1日、15日〜17日まで幅がある。彫刻の誤りからして、どれも『明良洪範』を参考にしていそうだが、『明良洪範』以外では日付は死の直前に偏る。

2020-07-30 21:20:01
アリノリ @a_ri_no_ri

『続武家閑談』では、罪人を斬ったのが都筑久大夫ではなく彦坂久兵衛になっていて、他では出てこない榊原照久の名があるのが特徴だ。枕刀とはされず、罪人を斬った後、久能山の神主に預けられる形になっている。 久能山に納める部分は、史料にあったりなかったりする。

2020-07-30 21:20:11
アリノリ @a_ri_no_ri

短い『続武家閑談』まで含めると、家康の三池(ソハヤ)の物語で不可欠なのは、「罪人を斬る」であるのが分かる。他の史料でも必ず載っており、『続武家閑談』もそこだけは外していない。やはり、人を斬ってこそ、刀なのだろう。

2020-07-30 21:20:25
アリノリ @a_ri_no_ri

ここまでの流れで、先の⑴、⑵、⑶に、⑷「子孫長久の守神」が「追加」されたのが見て取れた。この「子孫長久の守神」と引き換えに「神秘の奥秘」が消えたのが分かっただろうか。家康の行動はソハヤ(三池)を「子孫長久の守神」とするためのものと説明されたので、「奥秘」ではなくなったからだろう。

2020-08-01 19:08:46
アリノリ @a_ri_no_ri

ただ、『大三川志』では、⑴、⑵、⑶、⑷を全て描写した上で「神秘の奥秘」も載せている。『明良洪範』『落穂集追加』『坂家古日記』の全てを採用したようだ。ただ、「子孫長久の神」と表記されていて、「守神」ではない。相変わらず、所持銘も目貫も間違っている。

2020-08-01 19:09:21
アリノリ @a_ri_no_ri

罪人を斬って枕刀にして、2、3度振れば「守神」の出来上がり、というのは、家康の行動の説明にはなっていても、確かに「(罪人を斬ったら守神なんて、よく分からないけど、きっと)神道の奥秘(なのだろう)」と付け加えたくはなるに違いない。

2020-08-01 19:09:37
アリノリ @a_ri_no_ri

ここまで所持銘を間違えた史料ばかりを載せてきたが、当然、久能山ではそんな誤りはない。次は『久能山奇瑞記』の「三池御腰物の事」を載せる。 内容は先のものと変わらないが、以下に訳す。

2020-08-01 19:09:50
アリノリ @a_ri_no_ri

(二)、三池の御腰物のこと。御他界される二日前、4月15日に(家康様は)都筑久太夫を御前にお召しになり、三池の御腰物を長く手にとって見ていない、今日、罪人を試し切りするようにと仰せになり、久太夫に御腰物を下され、(久太夫が)次の間まで出たところ、

2020-08-01 19:10:00
アリノリ @a_ri_no_ri

また、(家康様は)呼び返され、罪が(死罪と)決まった者をよく吟味するようにとのご意見でした。久太夫は早速そのようにして御腰物を持って、御前へ戻りますと、(家康様が)切り心地をお尋ねになられますと、久太夫が申し上げるには、恐れながら、とてもよく切れる剣であるます。

2020-08-01 19:10:14
アリノリ @a_ri_no_ri

土壇まで切り入りましたので、(土壇に)砂引きがございましたと申し開ければ、(家康様は)ご機嫌よく、すぐに(御腰物を)お手に取られて、二、三度、振られました。「この御腰物を子孫長久の守神とすべし」との御意でありました。

2020-08-01 19:10:23
アリノリ @a_ri_no_ri

そのまま鞘に収められたとのことです。右の御腰物は長さが2尺3寸三分、幅が一寸二分半、中心に「妙純伝持ソハヤノツルキウツスナリ」とある。

2020-08-01 19:10:32
アリノリ @a_ri_no_ri

先の史料との違いを上げるとすれば、枕刀がないところだろうか。長さが他の久能山の史料より「一寸」長いのはミスなのか、同じサイズになっている『坂家古日記』を参考にしたのか。それでも、流石に所持銘は正しい。

2020-08-01 19:10:44
アリノリ @a_ri_no_ri

正しい所持銘が江戸時代に知られてなかったのはほぼ確実で、今までの逸話は全て「ソハヤノツルキウツスナリ」を知らずに作られたことになる。上記の「莫耶(ばくや)/そばえ」以外に「そわか」(後述する)があるから、近い情報はあったのだろう。

2020-08-01 19:10:54
アリノリ @a_ri_no_ri

『久能山奇瑞記』にはもう一つ、家康の三池の物語がある。以下に訳を載せる。

2020-08-01 19:11:04
アリノリ @a_ri_no_ri

(四)、御腰物を内陣(神社の本殿)へ移動しましたこと:(家康様の)御腰物はそれ以前は御宝蔵に納められていましたが、島原天草一揆の時節に、榊原照久の夢ともうつつとも(分からない状態で)(家康様=東照大権現の)御前に召され、どうして御腰物(三池)を蔵に置いたのだ、

2020-08-01 19:11:15
アリノリ @a_ri_no_ri

早々に内陣に入れるようにと、お叱りを受ける声がしました。夢から覚めましても耳底に残っているように思いましたので、照久はそのまま水ごりをして、夜中のことでしたが、御宝蔵にあります御腰物をご内陣に納めましたとのことです。

2020-08-01 19:11:31
アリノリ @a_ri_no_ri

島原天草一揆鎮圧のために、家康が三池を欲したとも取れる話である。これと連動したものがあり、次の五にある。以下に訳す。

2020-08-01 19:11:42
アリノリ @a_ri_no_ri

(五)、拝殿に血があったこと:島原天草一揆の年、正月元旦の朝、御石の間の入り口の白砂に、おびただしい血が見えたそうである。

2020-08-01 19:11:52
アリノリ @a_ri_no_ri

家康の三池に「子孫長久の守神」の役割が追加されている。それを踏まえた物語が(四)で、2月の鎮圧を前提としたエピソードが(五)だろう。(四)はまるで家康が三池を使うために蔵から出して内陣に納めさせたようになっている。 実際に三池は刀箱に入った状態で内陣に置かれていたようだ。

2020-08-01 19:12:02
アリノリ @a_ri_no_ri

このような島原天草一揆に絡めた話はもう一つある。『和世説』である。次に訳を載せる。

2020-08-02 21:04:12
アリノリ @a_ri_no_ri

東照宮(家康)がお亡くなりになる前、三池伝太が作ったお刀を試し切りさせられ、枕刀としてこれを置かれた。この剣は(家康が)亡くなられた後に久能山の御神剣となったとのことだ。右の伝太作の剣は、もとは武田家の侍桂山十郎が所持し、「そはか(そはつ?)」と号していたとか。

2020-08-02 21:04:28
アリノリ @a_ri_no_ri

この剣は久能山の御神剣となり、島原の乱で一揆勢が敗北する前に、ご神前に納められており、その剣は自然と抜け出て縦になり、血をとくとくと出した後に一揆勢が負けたとか。この剣の血は木屋常三が拭くために来たとのことだ。

2020-08-02 21:04:38
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