【英国紅茶の歴史 或いはイギリス人は如何にしてティーを愛するようになったか/後編】

英国人の「紅茶好き」は夙に知られるところで、他の欧米諸国ではもっぱらコーヒーが愛飲されるのと対照を成します。 本稿では近代の社会・経済史を織り込みつつ、紅茶が英国を征服する過程を概観します。 今回は紅茶文化が頂点を極めたビクトリア朝期から、新しい流行が生まれた20世紀までを中心に見ていきましょう。
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HIROKI HONJO @sdkfz01

アッサム種は1830年代に自生しているのが発見されましたが、暫くは茶樹として認められず、1840年代にようやく栽培が始められるも、その道のりは苦難の連続でした。そして1850年代に入って、遂に事業は軌道に乗ったのです。 pic.twitter.com/1gt5qB0K4a

2020-08-15 17:27:35
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こうして生まれたアッサムティーは、「モルティーフレーバー」と呼ばれる甘く芳醇な香りと、熟成した濃厚な味わいを特徴とし、見た目は濃い赤褐色。ミルクによく合うことで知られます。 中国種のダージリンが高級品であるのに対し、土着種のアッサムは廉価品として19世紀の英国へ広まります。 pic.twitter.com/FcY27N7qTe

2020-08-15 17:29:09
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1860年代になると、セイロン(現スリランカ)でも茶の栽培が始まります。なかでも、ウバ高地で生産されるウバ茶は、世界三大銘茶に数えられ、「ウバフレーバー」と称されるバラやミントのような甘く爽やかな香りと刺激的な渋み、赤みの濃いオレンジ色の色合いが特徴です。 pic.twitter.com/v7uNYGrGb3

2020-08-15 17:29:38
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なお、私は紅茶の香りや味について全く知らないので、ここら辺の文章はヤッツケで書いています。読者諸賢におかれましては、話三割でお聞きいただき、実際に紅茶を嗜なまれる際には、専門書やプロのアドバイスに従って頂きますよう、お願いします。

2020-08-15 17:30:34
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さて、インドやセイロン産の茶は、巨大なプランテーションを舞台に、植民地の安価な労働力を用いて栽培され、新式の機械によって加工されました。これにより、小規模農家が手工業的に作る中国産の茶を価格面で圧倒。1887年、イギリスにおける植民地産の茶の輸入量は中国産を上回ります。 pic.twitter.com/8W5PyJlltS

2020-08-15 17:31:44
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実際、英国の中国茶輸入量は1877年の1億3,226万ポンド(6万トン)を頂点に、1889年には6,110万ポンド(2.8万トン)へと半減しますが、植民地産(インド+セイロン)は1866年の458万ポンド(2千トン)から1889年の1億3,290万ポンド(6万トン)へ急伸。 pic.twitter.com/xNg30WzPCt

2020-08-15 17:32:13
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この間、トータルの茶の輸入量は1866年の1億ポンド(4.5万トン)から1889年の2億ポンド(9万トン)へと倍加しました。さらに、1923年の輸入量は4億ポンド(18万トン)に達しましたが、この内70%が植民地産、10%が中国産だったのです。 同年、英国は世界の茶の半分強を消費しました。 pic.twitter.com/EDc4m8xxEl

2020-08-15 17:33:52
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1785年の輸入量が1,085万ポンド(4,900トン)だったことを考えると、まさに爆発的な増加です。価格は、1785年の1ポンド(450グラム)あたり2シリング(労働者の収入2日分)から、1880年には1シリング(同0.15日分)へと落ち着きました。 pic.twitter.com/VH8wDAxqd7

2020-08-15 17:34:24
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価格の低下と賃金の上昇により、茶はより身近な商品になりました。かくして、喫茶の習慣は中産階級から労働階級へと広がり(詳細後述)、茶は真にイギリスの国民的飲料となったのです。 また、茶葉の加工が機械化されたことは、意外な結果をもたらしました。現代的な「紅茶」の登場です。 pic.twitter.com/FssGe2MrIg

2020-08-15 17:35:51
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1860年代、茶葉を揉む工程が機械に取って替わられました。これにより、人力に比べて圧倒的に早く、安く、かつ徹底的に作業が行われるようになります。よく揉んだ茶葉ほど発酵の度合いが高まるため、機械製の茶は香りも味わいも深く、色も濃く美しいものでした。 pic.twitter.com/VCDf2YVX4P

2020-08-15 17:36:23
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この新しい茶は英国人の心を摑み、それまでの半発酵茶をたちまち駆逐し、現代へ続く紅茶となったのです。 植民地のプランテーションでの栽培、機械化された工場での加工、蒸気船での輸送。これら3つの条件がそろって大量の紅茶が安価かつ大量に供給されました。 pic.twitter.com/gR1qjhzWfh

2020-08-15 17:37:48
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紅茶こそは、豊かで広大な植民地と巨大な工業力・テクノロジーを有し、海上交通を支配する大英帝国の覇権と繁栄の象徴に他なりません。 1884年、英国のある軍人は次のように記しています。 pic.twitter.com/m6EMeBL0MU

2020-08-15 17:38:32
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「インド茶は広大な農園で、教養あるイギリス人の監督下で栽培・製造される。そして技術と資本が結合して最高の品が生産される。…中国では茶は手作りされ…裸同然の男たちが作業台の上にかがみ込んで茶を揉む。彼らはふんだんに汗をかく。その結果を事細かに描写する必要は無いだろう!」 pic.twitter.com/mnkt98b1Rw

2020-08-15 17:39:35
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こうして茶からエキゾチックな東洋の香りは剥ぎ取られ、近代帝国主義システムの下で生産・流通・消費される商品へと転化したのです。 半植民地化されつつあった中国でも紅茶の生産が始められ、1870年代に祁門紅茶(三大銘茶の最後の一つ)が誕生しますが、中国茶の頽勢を覆すには至りませんでした。 pic.twitter.com/ythBEdnoXH

2020-08-15 17:40:53
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ちなみに中国では、この新しい茶は「紅茶」と命名されました。19世紀半ばの事です。 pic.twitter.com/0BHGjIn3gI

2020-08-15 17:41:26
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ここで、19世紀の「紅茶革命」の負の側面に目を向けましょう。プランテーションでの茶の栽培は、現地の人々を酷使することで成り立っていました。労働力が不足していたセイロンでは、対岸のインド亜大陸からタミル人労働者が多数連れてこられ、現在の民族紛争の淵源となりました。 pic.twitter.com/H9opbtjG64

2020-08-15 17:41:58
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紅茶の消費量の増大と共に砂糖も多く使われるようになりますが(英国人一人当たりの年間消費量は、1800年に茶2ポンド弱・砂糖20ポンド弱、1900年に茶6ポンド・砂糖80ポンド)、主な供給地のカリブ海の島々では黒人が非人道的な環境で働かされ、土地の疲弊も深刻だったのです。 pic.twitter.com/PlYNt8VFjf

2020-08-15 17:43:18
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植民地のプランテーションでの茶や砂糖の栽培は、現地のモノカルチャー化を助長し、本国への経済的な依存を高めました。 pic.twitter.com/oMZQisDdko

2020-08-15 17:44:42
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また、阿片戦争とアロー戦争に敗れた清朝は阿片取引の合法化をのまされます。この結果、多量の阿片が輸出され、国内に中毒者が溢れかえりました。さらに、代金として巨額の銀が流出し(中国茶の輸出が減ると貿易赤字はより深刻になった)、中国は欧米列強に隷属を強いられるのです。 pic.twitter.com/1v8ta1d9Xf

2020-08-15 17:45:12
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こうして世界中で様々な軋轢を産み出しながらも、19世紀後半、大英帝国の紅茶文化は爛熟期を迎えます。 英国の歴代女性王族が茶を愛したことは前編で触れましたが、1836年に即位したビクトリア女王もその例外ではありません。 pic.twitter.com/qT5qtZuSHS

2020-08-15 17:46:28
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彼女が玉座について発した最初の命令は「お茶を持って来なさい」だったと伝えられ、また、後年リッジウェイが女王のために特別に調合、献上した紅茶はH.M.B.(Her Majesty's Blend)として今日まで伝えられています。 pic.twitter.com/mHRsUQzAqi

2020-08-15 17:47:01
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これは、セイロン茶・アッサム茶・ダージリン茶をブレンドしたもので、その味を認めた女王はリッジウェイを王室御用達に任じています。 なお、リッジウェイは1836年に創業、クリッパーレースで名を挙げ、他社に先駈けてブレンド紅茶を販売したことで知られます。 pic.twitter.com/d8kQvDo3JN

2020-08-15 17:48:51
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ビクトリア朝期、貴族階級のお茶の流行をリードしたのはベッドフォード公爵夫人のアンナ・マリアでした。当時、ランプやガス灯の普及に伴い生活スタイルは夜型になりつつありました。ディナーの時間は遅くなり、彼女は夕方になると空腹感を感じるようになります。 pic.twitter.com/9GTYN1PlqG

2020-08-15 17:49:23
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そこで親しい友人を招いてお茶と軽食を共にしたのが「アフターヌーン・ティー」の始まりだったのです。 公爵邸「ウーバンアビー」での午後の茶会はたちまち評判になり、1841年にはアンナ・マリアと親交のあった女王が訪れています。以後、王室もアフターヌーン・ティーを主催します。 pic.twitter.com/8l2tQZqbn6

2020-08-15 17:50:07
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因みに、キリンから発売されているペットボトル入りの「午後の紅茶」のラベルに描かれている貴婦人は、アンナ・マリアその人です。 pic.twitter.com/1PVmHodrM3

2020-08-15 17:51:28
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