【英国紅茶の歴史 或いはイギリス人は如何にしてティーを愛するようになったか/後編】

英国人の「紅茶好き」は夙に知られるところで、他の欧米諸国ではもっぱらコーヒーが愛飲されるのと対照を成します。 本稿では近代の社会・経済史を織り込みつつ、紅茶が英国を征服する過程を概観します。 今回は紅茶文化が頂点を極めたビクトリア朝期から、新しい流行が生まれた20世紀までを中心に見ていきましょう。
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HIROKI HONJO @sdkfz01

【英国紅茶の歴史 或いはイギリス人は如何にしてティーを愛するようになったか/後編】 英国人の「紅茶好き」は夙に知られるところで、他の欧米諸国ではもっぱらコーヒーが愛飲されるのと対照を成します。 本稿では近代の社会・経済史を織り込みつつ、紅茶が英国を征服する過程を概観します。 pic.twitter.com/dVjeq0zJEG

2020-08-15 17:08:26
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今回は紅茶文化が頂点を極めたビクトリア朝期から、新しい流行が生まれた20世紀までを中心に見ていきましょう。 pic.twitter.com/EBLMQsgMO6

2020-08-15 17:08:54
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前編(大航海時代を経て茶がヨーロッパに齎され、コーヒーとの競争に勝利して英国に定着するまでを素描)はこちらをご参照下さい。 togetter.com/li/1572964

2020-08-15 17:09:14
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19世紀初頭。それまで英国の海外進出の尖兵であった東インド会社が漸く斜陽のときを迎えていました。所謂「産業革命」の進展により抬頭した産業資本家は、工業製品の販路を海外市場に見出し経済の自由化を要求、かつての重商主義の残滓は撤廃されつつあったのです。 pic.twitter.com/C17TUYYD8c

2020-08-15 17:09:49
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当時、世界市場に大量の茶を輸出できる国は中国の他にありませんでした。そして、東インド会社はそれまで中国との貿易を独占していたのです。彼らはインド産の阿片を中国へ密輸し、その対価として茶を手に入れるだけでなく、莫大な量の銀を稼得していました。 pic.twitter.com/gajexDFhH9

2020-08-15 17:10:25
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しかし、1813年にインド貿易が、1833年には中国貿易が自由化され、英・中・印間の三角貿易は民間企業に委ねられることになったのです。 これによって貿易会社としての機能を喪った東インド会社は、インドの統治機構として1858年まで存続した後、解体されます。 pic.twitter.com/qJorchyHQR

2020-08-15 17:11:07
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この商機を捉えたのがスコットランドのエディンバラに本拠を置くメルローズ商会(1812年設立)で、中国航路に新型の快速帆船「ティークリッパー」を投入、新鮮な茶をイギリスに輸入し大成功を収めます。そして、1837年に王室御用達の称号を得たのでした。 pic.twitter.com/hxbhkX2fkv

2020-08-15 17:11:49
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当時最先端のクリッパー船は、鉄製の骨格に木材の外板を貼っており、軽量かつスレンダーな船体を実現。また、帆の面積も大きく、風をいっぱいに受けると時速15ノットをだすことができます。かくして従来の東インド貿易船(East Indiaman)が片道1年を要した中国航路は、100日に短縮されたのです。 pic.twitter.com/4RaNhD4DMs

2020-08-15 17:12:39
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1842年、英国は阿片戦争に勝利(前編参照)し、香港が割譲された他、広東・上海・福建など5港が自由貿易港となります。この結果、茶商人による中国との貿易は更に活気付きますが、1849年の航海条例(英国に輸入される物資は自国船舶で輸送することを定めた法)廃止は彼らに衝撃を与えました。 pic.twitter.com/gusmT24v8P

2020-08-15 17:13:23
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経済自由化の一環として断行されたこの規制撤廃により、アメリカのクリッパー船が英中間のドル箱路線に参戦。1850年には米国の「オリエンタル号」が500トンの茶を積んで香港を出港、僅か97日という記録的な速さでロンドンに入港したのです。同船の茶は通常の倍額で買い取られました。 pic.twitter.com/LeDoOXWOpO

2020-08-15 17:14:07
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お茶は鮮度が命です。一日二日短縮したところで代り映えしない気もしますが、やはり初物にプレミアムが付くのは洋の東西を問わないらしく、一番早く戻った船の積み荷は特別な高値で取引されました。こうして1850年代から60年代にかけ、激しいティークリッパー・レースが展開されるのです。 pic.twitter.com/dR8oxaWqLV

2020-08-15 17:14:57
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殊に、11隻ものクリッパーが参戦した1866年の競争は「グレート・ティー・レース」と呼ばれ、今日まで語り継がれています。 激戦を制したのは英国の「テーピン号」で、彼女は500トンの茶を携え福州-ロンドン間を99日で踏破。2番手の「アリエル号」は30分遅れで接岸するほどの接戦でした。 pic.twitter.com/rmEctRsySL

2020-08-15 17:15:47
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壮大な海のダービーは英国民の関心を集め、新聞各紙は最新の動向を競って報じました。当時の最新技術だった電信網(インドまで延伸されたばかりだった)も活用されています。 「テーピン号」がロンドン港に到着すると、埠頭で待ち受けていた群衆から大歓声が上がったと言います。 pic.twitter.com/DiStAjB80b

2020-08-15 17:16:39
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「グレート・ティー・レース」をもって、帆船は有終の美を飾りました。1869年に開通したスエズ運河は蒸気船しか通ることが出来ず(無風地帯にあるため)、蒸気船そのものも急速に進歩していたのです。1865年に建造された「アガメムノン号」はクリッパー船の3倍の積み荷を載せることができ、 pic.twitter.com/BZeikoSbJw

2020-08-15 17:17:23
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英中間の航海に要する日数は僅か60日(スエズ経由)でした。こうして帆船は蒸気船に海運の主役の地位を譲り、中国茶は機械力によってより早く、大量に輸送されるようになったのです。 なお、名高い「カティ・サーク」が進水したのは1869年で、ティークリッパーとして活躍できた期間は数年でした。 pic.twitter.com/AYQOp972ZD

2020-08-15 17:18:15
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さて、大英帝国が専用の船を作ってレースを繰り広げたことは、茶の供給が中国に深く依存するものであったことを如実に示しています。 実際、19世紀に入っても、茶は謎に包まれた東洋の飲み物で、英国では茶樹がどんな木であるのか、茶はどのように作られるのか、あまり知られていませんでした。 pic.twitter.com/JqQHf7sXNe

2020-08-15 17:19:08
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「アールグレイ」の誕生にまつわる逸話は、それを象徴するエピソードの一つと言えましょう。1830年代前半に首相を務めたチャールズ・グレイ伯爵は、外交儀礼として中国から贈られた高級発酵茶の香りの虜になりました。しかし、首相と雖もこのような最上の茶を英国で手に入れるのは不可能でした。 pic.twitter.com/7Dr56mhWNZ

2020-08-15 17:19:43
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そこで、伯爵の意を受けた英国人茶商は、発酵茶と緑茶をブレンドし、香りづけにベルガモット(柑橘類の一種)の皮を混ぜました。それによって高級中国茶の風味を無理やり「再現」したのです。こうしてできたのが「アールグレイ(グレイ伯爵)」だと言われます。 pic.twitter.com/iZIhyabHE0

2020-08-15 17:20:37
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尤も、この話は信憑性において大いに疑問が残るのですが(恐らくグレイ伯爵云々は箔をつけるための作り話)、英国人が如何に茶の作り方や扱い方について疎かったかをよく示すものではあります。 なお、英国最古の茶商トワイニング社はアールグレイの元祖を名乗っていますよ。 pic.twitter.com/IiKjjxkFdD

2020-08-15 17:21:15
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余談ですが、「分類学の父」と称されるスウェーデンの植物学者、カール・リンネさえ、緑茶と発酵茶はそれぞれ異なる茶樹から作られたものだと考えていました。 pic.twitter.com/vvtxvdI4VT

2020-08-15 17:22:11
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しかし、19世紀中葉、遂に茶が纏う神秘のベールが剥ぎ取られます。英国王立園芸協会のプラントハンター、ロバート・フォーチュンが阿片戦争直後の中国奥地に潜入(清朝は外国人の立ち入りを開港地周辺に限定していた)、茶に関する大量の情報を持ち帰ったのです。 pic.twitter.com/gRS32xwzCi

2020-08-15 17:22:50
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フォーチュンの綿密な現地調査により、緑茶も発酵茶も同じ茶樹から作られることが確認されたばかりでなく、茶が育つ風土、栽培法、剪定・加工法など、茶の生産に必要なあらゆる知識が獲得されました。さらには、茶樹の苗木までが持ち出されたのです。 pic.twitter.com/aCpuw3DDkU

2020-08-15 17:23:59
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これらの苗木はインド北東部のダージリンに植えられました。今や、英国人は自ら茶の栽培に乗り出したのです。 1874年にはダージリン地方の栽培面積は6,000ヘクタール、茶園数は113か所まで広がり、一躍有力産地にのし上がります。 茶園経営の為、山岳鉄道も敷設され、活躍しました。 pic.twitter.com/S1LL44lPM6

2020-08-15 17:25:13
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かくして世界三大銘茶の一つ、ダージリンティーが誕生したのです。この茶は、シャンパンのような淡い金色と、「マスカットの香り」と表現される新鮮で若々しくも甘やかな香り、程よい渋みを特徴とし、現代ではストレートで飲むのが好ましいと言われます。 pic.twitter.com/NShIztiWOP

2020-08-15 17:26:28
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同じころ(1850年代)、インドのアッサム地方でも茶の栽培が本格化しつつありました。この地の茶樹は、中国種とは異なる独自の種(アッサム種。茶の原産地である雲南周辺から伝播する過程で変形したと考えられる)で、幹も葉も大ぶりでした。 pic.twitter.com/tsjsjSzgj0

2020-08-15 17:27:00
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