日本の男色の話

日本史の男色の話をまとめてます(随時更新) 読み物として楽しんでもらえたり、何か創作のアイデアに繋がることがあると嬉しいです もし何か気になる点などありましたら、Twitterの方で尋ねてくださると、お力になれるかもです
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近衛家と男色

こうく @usedtobe_sth

52歳の伊達政宗が上洛した際、20歳の右大臣近衛信尋と出会った。後陽成天皇の皇子から近衛家にはいった信尋は幼い頃から並びない美男子で、男色関係を持っていたという話が後世の史料『白石先生紳書』に見える。信尋は藤堂高虎や柳生宗矩からも言い寄られたが、特に伊達政宗は懸命だったそう。

2020-07-23 11:22:43
こうく @usedtobe_sth

別れ際には政宗と信尋は和歌を送り合い 今日出でて 明日より後の 袖の露 ほすことあらじ あかぬ別れに(今日旅立ち、明日からは涙で袖が濡れます。乾くことはないでしょう、名残惜しい別れに)(政宗) あかずして 別るる人の 言の葉や また逢ふまでの 形見とは見ん(名残惜しく別れる人の言葉だな

2020-07-23 11:26:30
こうく @usedtobe_sth

あなたの言葉を次逢う日までの形見と見ましょう)(信尋)

2020-07-23 11:26:30
こうく @usedtobe_sth

近衛家の話題で話を続けると、後白河法皇と近衛基通が男色の関係だったのではないかという話があります。平家の都落ちの際、法皇を連れていこうとする動きを基通が、女御冷泉局を介して、伝えましたが、このとき法皇の寝室であったそうで、九条兼実はこのときのことを『玉葉』で「ご本意を遂げられた」

2020-07-26 02:35:27
こうく @usedtobe_sth

と記しています。また別の日は後白河と基通が色っぽい言葉で戯れたと記していたり、「法皇と摂政には艶がある」や「君臣合体のことはこのことを以て至極とするべきだろうか」と二人の関係を暗示しているような記述があります。

2020-07-26 02:39:10
こうく @usedtobe_sth

『増鏡』によれば、近衛家平は「人生半ばの頃から、男だけを傍らに臥せさせ、法師の稚児のように扱った」そうで、次々と寵愛する少年を変えていったそうです。最初は左兵衛督忠朝を限りない愛情で七、八年愛したが、次に成定に寵愛がうつります。同時に傍らには壱岐守頼基という少年がいて、

2020-07-26 02:47:07
こうく @usedtobe_sth

家平の出家に伴って出家をし、臨終まで近くに寄り添ったそう。家平が病にかかると、昼も夜も頼基を話さず、臨終のときは頼基に「ああ、一緒に死ぬ事ができれば、嬉しいだろう」と言って亡くなった。家平の息子の近衛経忠はこのような父を見て「残念だ」と思ったとある。

2020-07-26 02:47:07
こうく @usedtobe_sth

家平の死後、頼基も病期になりましたが、それだけではなく、常に畏まった風で、誰もいないのに着物を着せてあげるような仕草をしていて、死に際には「すぐに参ります。参ります」と独り言を言いながら亡くなっていったそう。人々はこれを見て、頼基に執着した家平があの世から迎えに来たのだろうと

2020-07-26 02:49:43
こうく @usedtobe_sth

恐ろしく思ったと『増鏡』にはみえます。

2020-07-26 02:50:08

江戸時代の俗説(空海と真雅)

こうく @usedtobe_sth

『古今和歌集』の詠み人知らずの恋歌「思ひいづる ときはの山の いはつつじ いはねばこそあれ こひしきものを」は『十訓抄』では藤原国経が藤原時平に妻を寝とられたときに詠んだ歌としているが、他史料では空海の弟で弟子の真雅が少年で曼荼羅丸と呼ばれていたた在原業平に恋して詠んだ和歌ともされる

2020-09-23 02:31:58
こうく @usedtobe_sth

『玉伝深秘巻』では業平は真雅の弟子として、十六歳から二十八歳に至るまで、真言の奥義を極めたとあり、また真雅が業平を深く愛して、奥義を残さず授けたともある。

2020-09-23 02:33:54
こうく @usedtobe_sth

男色の始まりは空海とされ、江戸時代にこの説は大いに流行した。江戸川柳でもこれに関するたくさんの句が詠まれている。しかし貝原好古はこれを疑い、天和三年の『大和事始』では「日本で男色が流行ったのは空海以来というざ、『続日本紀』には孝謙天皇の頃、道祖王が密かに侍童に通ったことが見え、

2020-09-23 02:19:38
こうく @usedtobe_sth

それ以前からあっただろう」と書いている。一方で井沢長秀は『公益俗説弁』の中で「道祖王が通ったという侍童は童男童女どちらも指す。ここでは道祖王の側に仕える童女を言ったのだ」と記している。長秀の説は『水鏡』で「道祖王は身を弁えず、女関係が乱れなさっていた」とあるのに拠ったと思われる。

2020-09-23 02:22:48
こうく @usedtobe_sth

当時は空海が男色の祖として知られていて、それは川柳にも多く見えます「故郷を 弘法大師 けちをつけ」 (故郷は女性器のこと) 「陰間愚痴 弘法さまが初めずば」 (陰間(若衆)が、空海が男色を始めてなければよいものをと愚痴ったという意味)

2020-08-12 18:51:58

薩摩藩のおはなし

こうく @usedtobe_sth

江戸時代を通して、男色文化は段々と衰えていく傾向にあって、禁止された地域もあったんだけど、薩摩だけは例外で男子が女色に溺れずに、士気を維持するために暗に奨励していたとも伝わってる。また「へこ組」というものがあって、年上の二才が年下の稚児に武芸などを教えていたが、ここにも男色関係が

2020-07-28 22:19:31
こうく @usedtobe_sth

あったそう。へこ組では厳しく女性を遠ざけていて、女性の炊いたお米を食べないほどだったため。

2020-07-28 22:19:31

藤原実資と藤原頼通

こうく @usedtobe_sth

有名な『小右記』に見える話で「今日みた夢。清涼殿の東廂に関白藤原頼通と私藤原実資が共に烏帽子も被らないで、抱き合って寝た。この間、私の『玉茎は木の如く』だった」とあります。では藤原頼通には男色の話があるのかどうか調べてみると、まず『古事談』では源長季が頼通の男色の相手だったので、

2020-07-25 19:17:32
こうく @usedtobe_sth

長い間、頼通の元へ参らないと、とても恨めしく思った。また長季が大変なウワバミで、酒のことによって頼通の寵愛が無くなってしまったという説話が伝わっています。ちなみに同書で、藤原実資は女に目がなかったという話が見えます。

2020-07-25 19:17:32
こうく @usedtobe_sth

『古事談』巻2 長季、頼通の若気たること 源長季は藤原頼通の男色の相手であったので髪をゆいあげず、元服もさせなかった。長い間、長季が参上しなかったときは、藤原頼通は大層恨めしく思われた。長季は大酒飲みであったので、お酒のことで、頼通の寵愛はだんだんと無くなっていってしまった。

2019-10-24 01:06:56

男色の衰退と復興

こうく @usedtobe_sth

江戸時代も段々と時代が下るにつれ、男色が流行らなくなっていたともいいます。その理由には女性が魅力的になったや社会の安定に伴い家の存続が大切となっていたわけです。しかし明治時代になると一転、再び東京や大阪では男色が流行りました。というのも、江戸を圧倒したのは薩摩ですが、薩摩では男色

2020-07-23 20:45:39