秀吉は、家康を信頼?警戒?~歴史クラスタを賑わせ続ける「豊臣ー徳川禅譲論」を語ろう
豊臣秀吉が死ぬまで徳川家康を信頼し続けたのは、家康がずっと織田大名で居続けたこともあるし、秀吉と家康が対立した期間って小牧長久手の戦い前後のわずかな期間しか無いとかいろいろ要因はありそう。このあたりは今後の勉強対象。
2018-02-26 22:41:35慶元記に記載がある片桐且元書状 秀吉による家康への禅譲がでているが「あの太閤がそんなこと言うわけないだろ!」とか書かれているが 片桐且元の「十一ヶ条」 iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-991…
2018-03-19 13:28:21@urakkun26 宇喜多騒動は秀吉生前の太閤検地から端を発するのでそこまで家康の仕込みってことはないでしょう。むしろ島津庄内の乱と比較すべきですね。あちらは(家康が取り込みたい)島津当主方を家康は圧倒的支持。宇喜多騒動は(家康が嫌う)当主秀家に対して反逆する家臣の方を圧倒的支持。仲裁が恣意的過ぎ。
2018-03-21 16:21:22@koueorihotaru 三成失脚後、「大老」家を含む西国の大大名の家中に介入できるほどの権勢を、家康が確立していた、と見るべきなんでしょうね。この権益を、最初から秀吉に移譲されていたとするのが、禅譲論なんじゃないですかね。
2018-03-21 16:29:23四大老・五奉行体制は、家康監視機構。秀吉は家康を信頼していた、家康を警戒していた、両方とも正解。秀吉は家康を信頼しつつ、警戒していた。戦国大名が他の大名に絶対の信頼をかける事などない。和戦両様。お前を信頼している、とおだてつつ、警戒の目は怠らない。
2018-03-25 10:05:41野村玄『豊国大明神の誕生ー変えられた秀吉の遺言』(平凡社)。宗教の話ではなく、秀吉の神格化を通じて秀吉死後の政局も論じている。切り口が面白い。変えられた秀吉の遺言というのは勿論、家康への禅譲から集団指導体制に変えられたというような話ではない。
2018-04-01 22:17:19天下は私物ではないので、家督とは別物。三法師は織田家の惣領だが天下の後継者では無い。秀頼然り。後継者がいなかった、もしくはいついなくなるか解らない状況で、秀吉は自分が死んだあとも政権を担当できそうな家康を温存していたんじゃないかと思うが妄想かな。
2018-04-17 10:28:38@chika_kiseki 人はそこまで理性的になれるのか、ましてやアノ秀吉が、というところで、性格の悪い当方は、判断を止めています。
2018-04-17 11:27:38@urakkun26 @chika_kiseki 自分も秀吉にそこまで高邁な志があったとは思えないので、もし何かあったらなどとは考えず、ひとえに秀頼が天下人となることを望んでいたと思いますね。
2018-04-17 12:10:22@urakkun26 @Toshirou_m @chika_kiseki 横からすみません。自分が死んだらどうなるか、秀吉が一番よく知っていた筈です。期待、不安、現実的対応とか色々な要素の総体なんじゃないでしょうか。
2018-04-17 12:43:54@takinogawakage @Toshirou_m @chika_kiseki そうかもしれませんねえ。システム的な安全保障だけでは安心できず、あんたは律儀だからとか、あんたは友達だからと念を押さずにはいられなかったんでしょうね。
2018-04-17 12:48:49@urakkun26 @Toshirou_m @chika_kiseki 少なくともこういう結果になるのは、文禄4年7月の時点である程度は分かりそうなものですし。
2018-04-17 12:52:23@takinogawakage @Toshirou_m @chika_kiseki それでも秀次を圧殺せざるを得なかった事情というのも、首をひねるところですね。死ぬとは思わなかったと、死んでも構わないと思った距離は近い様に感じます。
2018-04-17 12:59:34@urakkun26 @Toshirou_m @chika_kiseki 秀次事件で反省(?)したのか、秀家や秀俊を立てる訳でもなく関白は空位のままでした。 家康に対しても「東はお前がやれ」「気が向いたら本丸上がっていいよ」とか意味不明な遺言しか残してません。 いったい何なんでしょね。
2018-04-17 13:06:57@takinogawakage @urakkun26 @Toshirou_m 色々な要素の総体ってのはその通りと思います。
2018-04-17 13:17:19@takinogawakage @urakkun26 @Toshirou_m あとは秀吉が天正十八年以降、家康の勢力を減衰させるいかなる行動も取っていないのは何故なんだろうというのは、いつも引っかかる点です。
2018-04-17 13:21:00@chika_kiseki @takinogawakage @urakkun26 @Toshirou_m 家康は東国~東北統治のまさに要で、秀吉の生存中東北も常にゴタゴタしていましたから、そんな中徳川を不安定化させることは不可能だったのではと。あえて言うなら家康の娘婿である蒲生秀行を減地転封させたことが勢力を削ったと言えば言えるかもしれません
2018-04-17 13:41:05@1059kanri @chika_kiseki @takinogawakage @Toshirou_m 因みに、蒲生領は秀行が幼少かつ重臣達との紐帯に欠け、継承前から迷走状態であり、そのままにしても、家康の負担になりこそすれ、東北鎮台の機能を果たすのは無理でしょう。会津除封を徳川牽制というのは、穿った見方でしょうね。
2018-04-17 14:00:01@urakkun26 @chika_kiseki @takinogawakage @Toshirou_m まあそうですね~。秀吉は臣従後は年を追って家康への信頼を高めていた感じです
2018-04-17 18:07:38@1059kanri @urakkun26 @chika_kiseki @takinogawakage @Toshirou_m 宣教師パシオ報告「秀吉は家康だけが日本の政権を簒奪しようと思えば出来る人物と評し好意を示して自分と固い契りを結ばせて忠節を誓約せずにはおれぬようにした」
2018-04-18 03:03:51@naioh39 @1059kanri @urakkun26 @takinogawakage @Toshirou_m 有名なー節ですね(^^)
2018-04-18 07:08:33@chika_kiseki @1059kanri @urakkun26 @takinogawakage @Toshirou_m 先のパシオ報告は慶長三年(1598年)十月付。家康と固い契りを結んだ意図は、秀頼への忠節を誓約させる為。親近感で簒奪の芽を摘む策とは人たらしの真骨頂か。
2018-04-19 01:43:58家康+利家が補佐として「幼君」秀頼をもり立てる体制を秀吉が構想したなら、秀頼を伏見城に居させたままになるわけです。政庁を移さずに大坂城へ移動させたのは「未来の後継者」であるが、「政権移譲」はしなかった。といえる
2018-04-19 13:45:55@Tdr_moeguti4065 白熱した議論に、浅識ながら横合いから失礼します。 >「未来の後継者」であるが、「政権移譲」はしなかった。 確かにそうですが、望んでいなかった訳ではないと思いますが如何でしょうか?
2018-04-19 14:21:38