- boukenkyuu
- 2396
- 1
- 0
- 0
blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/7… 万里の長城の狼煙台も2.5-6km間隔なら 音伝達も考慮していたのかだが
2021-08-09 09:34:35sankei.com/article/202101… 奈良期の狼煙台は20km間隔と有るが 音での通信は無いと言う事なのかだが 音を伝達する場所が別に有った可能性も有るのかだが
2021-08-09 09:36:10nagano-cvb.or.jp/furinkazan/sis… >謙信が永禄4年(1561)8月16日、川中島に出陣したことがいち早く狼煙で古府城に知らされた後、櫛を梳かすように次々と早馬飛脚による詳細な注進状が、海津城から信玄の元に届けられた。狼煙と早馬飛脚との情報伝達で、謙信が妻女山に本陣を構えた2日後の18日、
2021-08-09 09:40:11>信玄は1万の軍勢を整えて、古府を出陣することができたのである。 武田の場合狼煙だけでは無く馬でも 情報伝達はしていたと言う事なのかだが
2021-08-09 09:41:05isgs.kyushu-u.ac.jp/~hatt//noro.ht… >南都泳「朝鮮時代軍事通信組織 発達」 (『韓国史論』九・朝鮮後期国防体制 諸問題、1981-12)に付された地図 には、直烽・間烽によるルートが縦横に示されている。この烽燧は秀吉軍の侵略 時には機能しなかったため、低い評価しかなされないことが多い。
2021-08-10 14:38:45>明応八年(一四九九)、清水山にのろしがあがり、清水寺の鐘が打たれる (『清水寺史』史料編96頁より)。 鐘も狼煙を上げると同時に 鳴らされていた例も有るのかだが
2021-08-10 14:53:16六韜だと夜戦でも狼煙が 何故か利用されるが 此れは太鼓や笛も含め 海戦時の通信用では無い可能性も有るのかだが 韜略の夜の船戦時の太鼓・火は通信用では無く 敵を驚かせる為と言う事なのかだが pic.twitter.com/HaIXYeGTmC
2021-08-10 15:48:53tyanbara.org/business/sengo… >ちなみに豊臣秀吉が京都の伏見に築いた伏見城は、約100mの小高い丘に8階建てという壮大な天守を持ち、晴れた日には大坂城との通信が充分可能なように設計されていたのだとか。 伏見城の天守から 狼煙等は出していないかも知れぬが 火或いは旗等を利用したのかだが
2021-08-09 12:39:49ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97… 江戸期の米相場等伝達用の旗振り通信は 14-22km等も通信出来るのかだが 戦国期でも同様の物が利用されたのかだが
2021-08-09 13:08:09>大阪から和歌山まで十三峠経由で3分、天保山経由で6分、京都まで4分、大津まで5分、神戸まで3分ないし5分または7分、桑名まで10分、三木まで10分、岡山まで15分、広島まで27分で通信できたといわれている[22]。 モンゴルの狼煙通信よりも 此れは高速と言う事なのかだが
2021-08-09 13:09:52annex.jsap.or.jp/photonics/koga… 799年に九州以外の狼煙台は廃止され 九州の狼煙台も9世紀後半には廃止されていると言う事なのかだが 関東等の一部地域には 以後も狼煙台は残っていたのかだが
2021-08-09 13:19:53oshiete.goo.ne.jp/qa/189405.html 1649年迄 日本に望遠鏡は無いと言う事なら 戦国期だと旗を20km等で視認出来たのかだが 5km等ではどうなのかだが
2021-08-09 13:53:34ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B… 1613年に家康に献上された望遠鏡が現存する様だが 欧だと16世紀末には伊で作られていたのかだが
2021-08-09 13:58:40homemate-research-castle.com/useful/16944_t… 備中松山城だと 太鼓通信を行う場所(太鼓櫓)が有ると言う事なのかだが
2021-08-09 14:27:42pref.okayama.jp/site/kodai/654… 備中松山城の中太鼓の丸と 下太鼓の丸の距離は 200mも無いと言う事なのかだが
2021-08-09 14:34:55indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2008/… >戦国時代も前半の兵農が分離されていない頃には・・・ ほら貝が鳴ったら、農作業をやめて家に戻る。 鐘が鳴ったら、合戦に出る準備をする。 太鼓が鳴ったら、武装して城(砦)に集合する。 などの、ルールが決まっていたという記録も残っています。
2021-08-09 15:19:59syokoukai.or.jp/fukaya/region/… >鐘撞堂山の名前の由来は、戦国時代、武州鉢形城の見張り場で、事ある時には鐘を撞いて合図したことから名前がついたとされています。「鐘撞堂」は、北条氏邦の義父、康邦が造ったものとされているが、一説には、鎌倉時代に建造されたものとか、
2021-08-09 15:42:12>猪股少平六範網により造られたもの、などとも言われています。 この「鐘撞堂」の堂守は鐘打鐘阿弥でこの鐘阿弥は飛脚も兼ねており、天正年間には鐘打は20人で敵軍の来襲ともなれば、この鐘を撞いて知らせた。そして鐘から鐘へと伝達され隣接の諸城にまで知らせるしくみになっていた。
2021-08-09 15:42:37twitter.com/boukenkyuu/sta… 鐘撞堂山等の北条の鐘だと 4.5km程度は通信していたのかだが
2021-08-09 15:46:15books.google.co.jp/books?id=rLw_D… 武田の狼煙台は5km間隔で 伝達速度は時速80km程度なのかだが 北条の支城は4.5km間隔と有るが 狼煙では無く音で通信していたのかだが
2021-08-09 09:08:39crd.ndl.go.jp/reference/modu… >『城郭 日本史小百科 24』(西ケ谷恭弘著 近藤出版社 1988) p72 支城の機能として「伝えの城」があげられ、連絡の方法として「鐘を打ったり」という記載がある。 また、「情報伝達を目的とし、見晴しが良い山上や舌状丘陵先端部に築城する」ことから
2021-08-09 16:12:17>「鐘突山などの地名がこれにあたる」と解説あり。さらに「寺院、神社などの太鼓・鐘を利用する例も非常に多い」という記載あり。 >p82「18 武器・戦法と築城様式の変化」に、「戦国大名領内の城郭は(中略) >情報伝達のための狼煙、鐘打台等の築城、に大別できる。
2021-08-09 16:13:40