産業革命とフランス革命とか
老大国の憂鬱
強力な保護関税に守られて工業化の進みつつあった南東ドイツ・ボヘミア・北イタリアが農業国ハンガリーや南スラブを支え、派手ではないがプロイセンに勝るとも劣らない成長率を記録していたのだ。
2021-11-15 21:47:38この発展は主として問屋制家内工業によってもたらされたが、ボヘミアでは鉄工業が牽引して近代的な工業へと転換する兆しが見えていた。鉄道の敷設や運河の開削、近代的な港の建設なども地道に行われていた。 国庫こそ逼迫していたが、挽回には手の届くところまで来ていたのだ。
2021-11-15 21:47:39だが、普墺戦争で敗れてドイツにおける主導権を失ってからは、オーストリアはもっぱらバルカン半島への関与を強めるようになる。 そして工業力が軍事力に左右されるという戦訓を得たオーストリアは、ボヘミアの鉄鉱業とハンガリーの農業に力を入れ、さらなる工業力を追求した。
2021-11-15 21:47:39ドイツからはじき出されたオーストリアは多民族国家をまとめ上げるためにハンガリーと合同し、ここにオーストリア=ハンガリー帝国が誕生した。
2021-11-15 21:47:39だがこれは結局、ドイツ人の帝国をドイツ人とマジャル人の帝国に衣替えしたに過ぎなかった。 ハンガリー支配下の民族は、結局のところ下級国民のままだったのである。
2021-11-15 21:47:40行け、我が想いよ、金色の翼に乗って
フィレンツェ、ボローニャ、ヴェネツィア、ミラノ… 15世紀から16世紀にかけてのイタリアが繊維産業の王者であったことは間違いない。 その生産体制は主に問屋制家内工業であったが、都市部では工場制手工業もまま見られた。
2021-11-16 20:31:39とりわけ伝統的に高品質を誇る絹織物は毛織物や綿織物と競合することなく、農村部では17・18世紀も活力を保っていた。 とはいえ、どれだけ高品質な織物を作ったとしても所詮は一都市である。繊維産業の王者イギリスと、それに保護貿易で対抗した諸国と違って、企業家は国家の庇護に期待できなかった。
2021-11-16 20:31:40こうして18世紀のイタリアでは工業は停滞し、貧民はパンを口にすることすら贅沢なように思われた。実際、貧民たちの空腹を満たしていたのは、小麦よりはるかに安いトウモロコシの粥(ポレンタ)であった。 イタリア統一の機運が高まったのは、この危機を乗り越えるためでもあったのである。
2021-11-16 20:31:401860年、サルデーニャ・ピエモンテ王国のイニシアティブにより統一イタリアが建国される。 この王国は、旧勢力を武力で追い落としたという日本と同じ利点を持ち、積弊勢力の反抗を気に病むことなく改革にまい進することができた。
2021-11-16 20:31:4119世紀から20世紀にかけての間、イタリアは猛烈な勢いで工業化を行った。国家が主導する鉄道網や道路網の整備が急ピッチで行われた。 中央銀行が創設され、民間の銀行と信用機関が破綻しないよう最後の貸し手の役割を果たした。
2021-11-16 20:31:41列強にふさわしい軍隊への革新も急務とされた。そのための投資もまた民間を潤すこととなった。1914年の時点で、イタリアは主導的な工業国家の一つとなっていた。 イタリアが名実ともに先進国に名を連ねることができたのは、あるいはイタリア政府自身の粉骨砕身への正当な対価ではなかったろうか。
2021-11-16 20:31:42まとめにかえて
イギリスで起こった最初の産業革命は、好条件に好条件が重なった末の奇跡的な果実だった。 高賃金。天然資源。自由主義。技術。商業革命。資本主義。農業革命。 工業化が起こるには、どれ一つとして欠けてはいけなかった。
2021-11-17 20:24:40革命と呼ばれるほどのイノベーションは努力と投資だけでは発生しない。であると同時に、イノベーションのために人ができることは努力と投資だけでもある。 我々は、一見して成果の出ない努力とどう向き合うかを考えなくてはならないのだ。
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