「親の階層から離れていける場所が学校教育」(芦田先生講義録より)
- hironakayuriko
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学校教育と家族の自律性というのは対立するという観点はどういうことかと言うと、東京の名門の小学校・中学校っていうのは、ここは家族の自律性を保証する学校なのです。つまり、家族の自律性を尊重すると、身分制を温存せざるをえない。
2011-09-06 02:59:24だって貴族は貴族らしい育て方をするし、貧乏人は貧乏人らしい育て方をするわけですから、学校という公共的な場をなくしてしまって、家族が自由に自分の考え方で教育しなさいって言ってしまうと、子どもの階級が親の階級にとどまってしまいます。
2011-09-06 02:59:41だから家族の自律性を重要視する教育っていうのは、結局のところ、階級や身分の再生産につながるという問題があります。だから、そういったときの選別は、親の面接であったり、記述試験であったりする、と。
2011-09-06 03:00:19ここから考えていくと、学校の意味、特に公立学校の意味が見えてきますね。学校というのは、家族の、あるいは親の子育てという権利、そして地域というものを相対的に軽やかにする場所。親が貧乏な人であっても、どんな階層に属していようよ、〈教室〉という空間に入り込めば平等なわけです。
2011-09-06 03:01:16反階層性としてのメリトクラシーが一番発揮できるのは主要5科目なんですね。昔、主要5科目の先生は職員室の立派なところにいるのに、体育だとかわけのわかんない科目の人は隔離されて暗そうな部屋にいたり、あるいは音楽室にずっと住み込んでいるかのような先生もいました。隔離されてました(...
2011-09-06 03:04:02体育教官室がなんで隔離されてるかというと(もちろん運動場に近いところにあるということはあるにしても)、非常に身分差別的な科目だからです。だって、一夜漬けで100メートルが速くなるわけないじゃないですか。あるいは一夜漬けで絵を描くセンスが生れるわけじゃないでしょう。音楽もそうです。
2011-09-06 03:04:32だから主要5科目って言っているときの「主要」っていう意味は、努力で、あるいはそこそこの教員がいるかそこそこの参考書があれば、なんとかなる科目を主要5科目っていうわけ。これは勉強の方法だとか工夫っていう人為的な要素が技術や音楽や体育や美術に比べて高い、だからいわば努力主義的な科目。
2011-09-06 03:06:08そういった「主要」5科目でいまのメリトクラシーの社会は成り立っていて、主要5科目の成績のいい人間が世の中のリーダーになるっていうふうにできあがっているのを学歴社会というふうに言うわけです。
2011-09-06 03:06:31したがって○×試験だとか、あるいは選択回答試験だとか、それらのタイプの最後のきわみであるマークシート試験っていうのは、まさにメリトクラシーにふさわしい選抜試験なわけですね。
2011-09-06 03:06:50なぜかわかりますか。○×試験やマークシート試験の対極にあるのは記述試験と面接試験ですよね。記述とか面接なんてやっちゃったら、貧乏人はすぐにばれる。よく履歴書だとか選抜で手書きのレポートを持ってこいっていう学校だったり会社があったりするけど、手書きを見ればだいたい階層がわかる...
2011-09-06 03:07:42ワープロっていうのは、まさにそれを自由にしたわけですね。文体まで読みぬける人間なんてこの世の中にそれほどたくさんいませんから、筆致がわかれば内容以外のこともわかる。それもあってワープロで文字(筆致)がOUTPUTできれば、階層も性格も隠せる。コピペも自由だし。
2011-09-06 03:08:38だから左翼教育派は(笑)、○×で非人間的な試験をやっちゃいけないってバカなことをすぐ言うわけだけど、そんなことを左翼なら言ってはいけないのです。左翼の理想とする“自由・平等”は、○×試験でないとダメなんですよ。
2011-09-06 03:09:44つまり貧乏人であっても、○か×か書けばいいだけ。お父さんやお母さんが字の汚い人であっても、○か×か書けばいいだけ。○か×の字体までも見ている先生はいないから。
2011-09-06 03:10:45また、こういうことを言うと、左翼教育派(笑)はですね、「点数で人間性がわかるか」って言うけど、点数で人間性をわかるようにするのが試験というものだから。
2011-09-06 03:12:05点数で測れないなら、誰が何の計器でもって測るのよ。こいつの人間性はえらいとか。あるいは思考能力も含めて深い思考は点数や選択式では選べない? そんなことあるわけない。たしかにくだらない試験も多いけれども、もともと試験の点数は、一つの「質」を表現するように作るもの。
2011-09-06 03:12:43イにウするか、1番を選ぶ、4番を選ぶかっていうのは、原稿用紙30枚ぐらいの思考力がないと、正しい「イ」や「4番」を選択することはできないんだっていうような問題をつくることができるのが教員じゃないですか。
2011-09-06 03:13:11教員と言うのは、教える前に問うことのできる人なのだから、点数で人が評価できないというのは教員が言うことではない。数学ができるとか英語ができるとかを点数以外で評価できるとすれば、点数評価よりももっと難しい、高度な専門性が要求される。
2011-09-06 03:13:30点数で人間など評価できないという教員の本心はまた別の所にもあります。点数の上下の格差は生徒や学生の格差であるばかりではなく、教員の専門性や教育力の格差そのものでもある。だから点数のような客観的な差が出るものは、教員にとっても面倒なものな訳です(笑)。
2011-09-06 03:14:11だから点数を嫌うのは生徒・学生ばかりではなく、先生も嫌い。いずれも被評価が嫌いなのです。しかし、点数そのものの意義は、反階層的なメリトクラシーの意義そのものに関わっています。点数試験は教員の「権力」をも相対化する自由の指標そのものなのです。
2011-09-06 03:15:37「関心・意欲・態度」を点数以外に付け加えた92年の新学習指導要領は、結局、教員の裁量権を拡大しただけ、まさに評価が(点数ではなく)「人間的な」分、教員「権力」を拡大することに繋がったわけです。児童生徒の学力のみならず、教員の教育力も相対的に低下した。
2011-09-06 03:18:52というような話も、九州講演でお話しします。続きはこちらで(笑)→ http://ow.ly/6lT79 今夜はここまで。※なおこの私の2月講演の内容は、年内に本となって出版されます。乞うご期待。
2011-09-06 03:20:27