議論の目的と議論成立の為の必要条件としての前提について。
「議論以前に何が妥当な意見であるかは決定されていない」という態度の涵養はなかなか難しい。これは、議論やより公式な討議などを実践していく環境がなければ身に着けられないのかもしれない。特に子供に対して、説明が面倒だから何らかの権威に頼る場合を多く見かける現状を考えればそれは納得。
2011-10-02 09:24:28あるいは、そもそも権威による説明すらせずに、「Xすることはあなたにとって善いこと」みたいな洗脳を親が子供に安易にしてしまう社会では、そもそも批判的思考力など身につかない。なぜ「Xするのが善いのか悪いのか?」ということの決定に対して大人になっても何らかの権威を理由にする人は多い。
2011-10-02 09:26:14新しい価値観を立てるのはよい。そのためにも、自分達がいま持っている価値観をきちんと意識に上らせないといけないんじゃないのか。私たちはなぜ列に整然と並び、困っている人を助け、義援金を送り、停電した店からは略奪をせず、計画停電に協力し、放射能のある地から動かないのか。
2011-10-02 09:26:44そうですね、ただ、前提は前提でも何を正しいとして何を偽とするのかという真理条件(パラダイム等)は共有されていないとコミュニケーション自体が成立しないんですよね。RT @kazutomi 議論しながら前提を探っていくのは大事ですよね。究極的に前提が共有されてなかった結論でませんがw
2011-10-02 09:30:58彼みたいに合理的で頭のいい人ばっかりならいいのにね。RT @yutakioka:前略どの意見が正しいのかは議論などせずとも年齢や役職などにより決定されていると信じていう人も多い、中略議論をする意味はないので、儀式としてする意味しかもたない。
2011-10-02 09:33:27そのような教育環境にさらされる子供が大人になりその異常さに気が付けるだけの経験をする機会があるのかは疑問。「何がより妥当な意見かどうかは議論しなければ分からない」という態度の共有は大切だが、真理条件は議論する人たち同士で理解していなければコミュニケーション事態が成立しない。
2011-10-02 09:34:20例えば科学の実験で言えばパラダイムを理解していないと、そもそもその実験の結果が仮説と整合的なのか、異なるのかという結論自体評価することができない。というのは、それが理解できていないと、何が独立変数で何が従属変数なのかが分からないので何を観察すればよいのかが決定できないから。
2011-10-02 09:36:58議論も同じで、真理条件が聖書との整合性なのか 現代の科学理論との整合性なのかによって、例えばインテリジェンスデザイン(ID)が正しいのかどうかを議論することもできない。仮にその議論をする両者が「議論をするまで進化論とIDどちらが正しいかは分からない」という態度をとったとしても。
2011-10-02 09:38:41それはわかりませんが、少なくとも小中高の頭が柔軟な時期の教育に不備があることは明らか(例えばデベートをする時間の不足など)なので、そこから改善していくべきでしょうね。批判的合理主義は培われるものです。RT @kensyuke 彼みたいに合理的で頭のいい人ばっかりならいいのにね。
2011-10-02 09:43:13@yutakioka若い時からのディベートやディスカッションやらの導入は賛成です。ところでyutakiokaにとって批判的合理主義の涵養の目的ってなんでしょうか?僕は他人を説得させる力をつけてそれぞれが自己実現できるようにするためだと思うんですが。
2011-10-02 10:11:15@yutakioka @ynabe39 隷属化・司牧権力化に対抗するためには、法に優越する法、民意に優越する理念がある、という考え方に念頭を置いて発言していく必要があると思います。
2011-10-02 10:15:54そうですね、それはもちろん大切なことですが、より大切なことはより良い意見の創出です。RT @kensyuke ところでyutakiokaにとって批判的合理主義の涵養の目的ってなんでしょうか?僕は他人を説得させる力をつけてそれぞれが自己実現できるようにするためだと思うんですが。
2011-10-02 10:15:57それは道徳的統合という話ですね。ただ道徳的統合を法的統合に優先するにしても、両者の関係は相補的であるべきです。RT @kuroitumi 隷属化・司牧権力化に対抗するためには、法に優越する法、民意に優越する理念がある、という考え方に念頭を置いて発言していく必要があると思います。
2011-10-02 10:17:35@kensyuke 例えば、説得するまでに至らないとしても、批判的合理主義の精神が身についていれば、明らかにデマと思われるような情報に騙される機会が減りますし、合理的な意見が複数あったとしても、その中からより説明内容の大きい意見を評価することができます。
2011-10-02 10:20:10@kensyuke そのような情報選択・評価能力の涵養にも役に立つので、個人が何らかの自由を実現する際に、本人にとって必要で有益な情報選択の機会が広がることにより、実現できる自由の選択肢や可能性も広がり有益です。なので議論をするという目的以外を考えたとしても、有益なのです。
2011-10-02 10:22:47@kensyuke そのような情報選択・評価能力の涵養にも役に立つので、個人が何らかの自由を表現する際に、本人にとって必要で有益な情報選択の機会が広がり、実現できる自由の選択肢や可能性も広がり有益です。なので議論をするという目的以外を考えたとしても、個人の善の実現に役立ちます。
2011-10-02 10:24:15@yutakioka 確かにノージックやリーガル・モラリストたちが指摘するように、モラルを使わないと説明できない法はあります。例えば、「動物愛護法」は「動物が可哀想だから」という道徳感情を抜きに説明できない。
2011-10-02 10:46:13@yutakioka [承前] しかし一方で、「道徳とはなんぞや?」という問題が発生します。例えば、ある時代では、恋愛や同性愛は、今の日本で言うところの児童ポルノのように、「不道徳」な情動でした。
2011-10-02 11:09:12@yutakioka 議論によるより良い意見の創出と情報選択・評価能力を身に着けるために批判的合理主義が必要なわけですね。仰るとおりです。やっぱり、お決まりのところに終着しちゃうもんですね。貴重なお時間を奪ってしまって恐縮でした。
2011-10-02 11:24:51いえ、こちろこそ、何らかの新たな結論などがあればとは思ったのですが、結局お決まりの結論になってしまいますね。というのもこの段階にすら達していないので、まずはこの終着点を目指すところからですね。 RT @kensyuke やっぱり、お決まりのところに終着しちゃうもんですね。
2011-10-02 12:32:35