- kotosakikotoko
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その頃は南部信時の時代になる。 南部信時は最近の研究で注目されている人で、南部宗家である三戸南部氏の20代当主。彼の代に閉伊・津軽を平定し戦国大名としての三戸南部氏の端緒を確立したと考えられている。『英武抜群、遠近恐怖、各帰服』とうたわれたそうで。
2022-11-17 20:15:21他の家と比較すると(徳川・大友)
この滝尻論文、南部氏って『分権的』と割とざっくり言われるのだけれども、じゃあその『分権的』の内実がいかなるものなのか、という辺りを徳川氏と松平一族の権力構造と比較して指摘している部分があるのでその辺も個人的には興味深いです。
2022-02-02 21:20:22滝尻先生は松平家忠日記の正月の記述と、南部家の正月儀式の史料を比較して、三戸南部氏と八戸氏の関係と、徳川氏と深溝松平家の関係性の相似を指摘した上で、家忠は家康の他に家康周りの家臣にも挨拶しているが、南部家は親類一家が三戸家臣に挨拶回りをする様子はないことを指摘してて、
2021-04-25 00:51:12それと熊谷先生が指摘する南慶儀と八戸政栄の関係性を加味して考えた時に、南部家内における諸家の独自の関係性と権力性を見て取ることが出来るなぁなどと思うのよね。
2021-04-25 00:53:23南部氏という権力が徳川などと比べるなら“緩い“権力であったのはその通りなんだろうなぁと思うのだけれども、一方でそこそこに整った権力の統制装置も持ち得ていたのは最近の南部家における正月年賀の研究見ても思うので、この辺無視して南部家個別の領主を語ることは出来ないよなぁと思ったり。
2021-04-25 01:01:18これ読んでるんだけど、大友さん家も南部家と同じで、正月儀式はまずスタートに梅干しとお茶を一緒に食べてるんだと知って親近感が湧く。 pic.twitter.com/2vSeLQdz58
2022-10-10 19:18:14メモ代わりに作ってみた。似通う所も違う所もあって面白いわぁ。 pic.twitter.com/3Vww0w0qRF
2022-10-10 22:07:06三戸南部家が正月朔日に八幡(櫛引八幡宮)に参っているの、まさに南部家の求心点であった証明だなぁ。この点が特徴的と言えるか。 大友家が地下人にまで対面の場を設けているのに対して三戸南部家にそれらしい記述は無いのも相違点。
2022-10-10 22:11:59三戸南部氏の正月行事のついての史料『古代三戸年頭御規式之事』では正月3日の記述が無いのだけれども、『祐清私記』には正月3日に『初陳の事初とて有例に任せて正月三日其年の恵方とて城南え出馬し給ふ』という記述があり、天正19年利直(利正)が恵方に出陣したそうで。 komonjokan.net/cgi-bin/komon/…
2022-02-09 01:19:22『篤焉家訓』十九之巻は『新羅三郎義光公より以来、武田家甲斐源氏の吉例にて十六歳の春正月三日、初陳講武の法連綿にして伝われり、天正十九(一五九一)年正月三日甲斐源氏の吉例たるにより、利直公その勢二千余人、恵方を指して出馬あり』だそうだけど、他の義光流にそんな儀式あるのかしら。
2022-02-09 01:21:17古代~のほうに3日目の記述が無いのは、なにがしかの儀式がある場合にそれを突っ込む予備日的な扱いだったのかしら? 初陣式なんて毎年するもんじゃなかろうし。
2022-02-09 01:26:44史料に名前のある重臣と無い重臣の違い
三戸南部氏の正月年賀、一族衆である石川とか石亀とか毛馬内とかの名前は載ってないのですが、この辺の扱いはどうだったのかは少し気になっているところではある。史料の成立年代に存在しなかったから記入されなかった、それとも別個に把握されていたか、とか色々考えようはあるんだけれども。
2022-02-02 23:17:19『古代三戸年頭御規之事』だと、東氏・南氏・北氏には儀式上の役割が割り振られているのに対して、毛馬内氏や石川氏は出てこない、というのは彼らの役割や立場から、正月年賀を免除されており、独自の権能を持っていた、と考えたほうがいい気はするのよな。
2021-04-08 21:52:05石川に関しては元亀2年3月には石川城に在城していて浪岡北畠氏の使者を席巻してるのが分かるため、仮説としては『石川は津軽諸郡内でミニ正月年賀してたんじゃね?』くらいだろうか。ただこれもこの年だけのようなんでどうにも説としては締まらない。
2022-02-02 23:20:20毛馬内に関しても石川と同じように鹿角郡で似たようなことしてたんでないかなぁとは思っているけどこれも推測重ねなんでまだ何とも言えん。 あと考えられるなら『正月年賀のあるタイミングで顔を出してたけど記入されなかった』という可能性位か。
2022-02-02 23:25:07一方で南部晴継死後の次期三戸家督決定会議には南長義・毛馬内秀範・石亀信房など、正月年賀には姿が見えない安信の兄弟たちが出ており、最高指導者決定の場に参加している以上、彼らの地位が低かった(から正月年賀に参加できなかった)、と考えるのもやはり間違いと思う。
2021-04-08 21:55:20南部氏、序列として『親類一家』『御一門』『家ノ子』『内衆』『外様衆』があり、うち御一門が東・南・北家で、斉藤利男先生は他に石川・堤・石亀・野沢・毛馬内が含まれるとされ、石川と堤に関しては正月年賀の名簿に名前が無いのは、現地支配の責任者として参加を免除されていた、と想定。
2022-02-06 00:19:42他に想定されている御一門も、何らかの『役割』からその存在やあり方だとか家格を考える事が出来るのかもしれないなぁとか思ったり。その意味では石亀氏と野沢氏って気になる。彼らにどんな役割が割り振られたのか正直よく分からんけど、検討できる何かがあれば色々見出せそうって。
2022-02-06 00:32:37その他のお話
櫛引八幡宮神事次第、中世南部領内において櫛引八幡宮の神事を各領主達にどう振り分けたかの史料なのだけれども、書かれたのが明応5年(1496)8月12日。 最近研究が進んだ15世紀末頃の正月行事に見る南部氏の序列関係と合わせてみると、この頃の南部氏権力の重層関係がほの見えてくるの面白いな。
2022-01-21 00:26:0815世紀末頃の南部氏、こういう正月年賀や櫛引八幡宮の神事によって領内主要領主を糾合し、共同体としての結束と序列を確認し、一揆的血縁的なまとまりを固めようとしていた権力体だったのだなぁというのが分かって楽しい。
2022-01-21 00:35:53