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陸奥南部氏主要領主 櫛引八幡宮に参集す―論文『南部氏の正月行事にみる領主関係』から見える光景―
滝尻侑貴先生の論文を眺めてるのだけれども、元日に三戸南部氏と八戸南部氏当主(そしておそらくは一戸・四戸・九戸・七戸など各『戸の家』の当主たちも集まったと想定されている)が櫛引八幡宮に集まり、三戸の当主が赤糸威鎧・八戸の当主が白糸威褄取鎧を着て儀式を行ったとするの、めっちゃたぎる。
2021-01-27 00:15:29赤糸威鎧・白糸威褄取鎧はすなわち櫛引八幡宮に奉納されている国宝の事で、これを着る事が出来たこの二者の特別性と優越性を考えずにはいられないのだけれども、一方で他の『戸の家』の当主たちも集まっていたのなら、彼らはどういう立場と役割でその場にいたのかも考えるよなぁ。
2021-01-27 00:15:29あと三戸南部氏の儀式に、最終15日夜に『田植』ってあって、これが雪中田植かえんぶりの事ではないかとされていて、こんなところに民俗習俗がきちんとみられるのがとても面白いし、えんぶりの起源にも繋がりそう(あくまで“そう“)なのも面白い。
2021-01-27 00:26:58滝尻先生の論文だと元日には櫛引八幡宮に戸の家当主が集まったそうだけれども、戸の家同士が抗争して年を越した時でも、当事者同士も集まるんだろうか。集まったとしたらすげえ険悪になりそうだけど、それはそれで『儀式』の重みを感じさせる出来事になりそう。
2021-08-25 00:25:31そういえば、正月に糠部南部氏の親類一族(一戸~九戸までのいわゆる戸の家)の当主たちが櫛引に集結したとするなら、その場は極めて政治的な『場』になるよな。一族の結束の名のもとに思惑が飛び交う恐ろしい場だったんかなぁ……。 twitter.com/kotosakikotoko…
2021-01-27 21:38:24正月年賀に櫛引八幡宮に集結した南部家の重鎮たちが、本音を美麗美句に包んでバチバチと舌戦と暗闘を繰り広げる櫛引八幡宮の数時間、みたいなドキュメンタリーを眺めていたい。
2022-01-01 22:56:31九戸の乱の前段として、九戸政実が正月年賀を欠席した、とする話があるわけだけれども(ただあれ出典祐清私記だったはずだから史料的価値は保留)欠席したとするならこの櫛引八幡宮への参詣になるのよな。結束の場にひとり重要な人物がいない――とても象徴的な情景だわな。
2021-01-27 21:50:05元日からの実際の流れ
今日は旧暦で1月2日ですが、陸奥南部氏領的には1月1日元旦です。 これは『南部の私大』という習慣で、南部氏の光行が領地に下向した際、正月準備が間に合わないから大晦日を1日伸ばして翌日を元旦とした、という故事からなんですが、じゃあ南部氏の正月てどんなの? となると幾つか史料があるんすね。
2022-02-02 20:35:40特に戦国期(15世紀末頃)の宗家である三戸南部氏の正月年賀がどんなもんだったのかというと、 まず元日は未明に『梅漬ノ御菓子ニテ御茶上ラレ』その後八幡(櫛引八幡宮)に参詣する。 櫛引八幡宮は南部領の総鎮守であり、ここには親類一家である八戸氏、四戸氏、九戸氏、七戸氏、一戸氏なども参集
2022-02-02 20:35:40したと考えられ、ここで三戸と八戸の当主が現在国宝になっている『赤糸威鎧』『白糸威褄取鎧』をそれぞれ来て儀式を行ったと考えられる(大般若経が唱えられたそうで)。なかなかビジュアル的。 その儀式が終わった後は三戸に帰宅し、雑煮が出されて奥の間で御膳・香物など祝いの席が設けられ、
2022-02-02 20:35:40御一門(東・南・北・八戸(本家でなく三戸に仕えた八戸一族)、後に中野氏も )で祝った。 その後、一戸氏・四戸氏・九戸氏が福士氏を奏者として挨拶に来る。それが終わった後は留守を残して三戸当主とその子息で報恩寺という寺に仏参する。これで元日の儀式が終わり――という中々お忙しい一日。
2022-02-02 20:44:13翌日には七戸と八戸氏が挨拶に来たり、御一門・家ノ子・内衆・外様など直臣団の御礼があり興元寺に参詣し――と以後半月に渡って儀式が行われるのだけれども、こうやって一個の武家体制としてのまとまりを可視化し内における結束と序列を確認したのだなぁというのが分かる史料で魅力的。
2022-02-02 20:44:13正月に領内主要領主が参集するの、他の家でも同じようなものなのだったのかしら。こういった機会ってあの当時貴重だったろうから(特に分権的な南部氏にあってはなおさら)色々話が進んだろうなぁという。
2021-01-27 21:59:12メモ:若松啓文先生も南部氏の正月行事に触れているが、櫛引八幡宮に集まったのちに三戸で行われる『正月御礼(年賀挨拶)が元日は一戸・四戸・九戸、二日は八戸・七戸と別々に設定されており、何らかの待遇差があったものと読み取れる』とするのに対して、滝尻侑貴先生は、その地理的要因を指摘。
2021-03-14 22:23:58『元日はともに櫛引八幡宮に参詣している。これは両氏だけではなく「戸」の領主全員が集まっていたと想定され、三戸氏の元日・二日における一族の配分にも関わってくると考えられる。三戸氏に対して元日に挨拶する一戸・九戸は、領地が櫛引八幡宮から遠いため、移動距離を考えて参詣後自領への帰途上に
2021-03-14 22:23:59ある三戸城へ挨拶し、そのまま領地に帰り、自家の祝儀を行っていたと考えられる。四戸に関しては距離的には三戸に一番近い領主であるが、領内に櫛引八幡宮があり元日の一族参詣の役務を担っており、この語も続く櫛引八幡宮参詣に対応するため、早々に挨拶して自領に戻ったとみられる。一方、二日に挨拶
2021-03-14 22:23:59する七戸氏・八戸氏について、八戸は、三戸城までの距離は、九戸氏が櫛引八幡宮まで訪れる距離に近く、一度引き返すのは合理性に欠ける。本来ならば、元日の櫛引八幡宮参詣の後、三戸城に訪れる一戸・九戸の日程と同様のほうが負担が少ないと考えられるが、記録上は二日になっている。この理由として、
2021-03-14 22:23:59八戸氏と七戸氏が血縁関係にあることが考えられる。七戸氏は、八戸氏の八代当主の子孫の一族であり、八戸市とはその後も血縁関係が結ばれている。よって櫛引八幡宮参詣後、八戸氏の元で一泊し、翌二日に八戸氏とともに三戸城に挨拶に行ったものと考えられる。』
2021-03-14 22:23:59三戸への正月年賀、ひと昔前だと『九戸は独立した領主だったのだから三戸への正月年賀などするわけがない、この史料は三戸優位の潤色だ』という声がかなりあったのですが、今はほとんど聞こえてこないのは研究の進展のおかげと思う。
2021-03-14 22:27:03一族重臣同士が顔を合わせる機会って案外無いというけど、正月年賀や神事という場によって機会が設けられ、対面での政治を可能にしていたの、南部氏という権力体を維持する機能を果たしたのだろうし、分権的と言われがちな南部氏の権力が何故一個の領主権力として続いたかという理由の一端だよなとか。 twitter.com/kotosakikotoko…
2022-01-21 21:26:3115世紀末頃の南部氏、こういう正月年賀や櫛引八幡宮の神事によって領内主要領主を糾合し、共同体としての結束と序列を確認し、一揆的血縁的なまとまりを固めようとしていた権力体だったのだなぁというのが分かって楽しい。
2022-01-21 00:35:53