平たく言えば、自分が一個の身体であるという自覚がない。言い換えれば「寸断された身体」のイメージ(仏:image morcelee du corps)の中に生きているわけである。
2011-10-30 00:50:12この鏡とはまぎれもなく他者のことでもある。つまり人は他者を鏡にすることにより、他者の中に自己像を見出す(この自己像が「自我」となる)。
2011-10-30 01:50:11すなわち、人間というものはそれ自体まずは空虚なベース(エス)そのものであって、いっぽう自我とはその上に覆い被さり、その空虚さ・無根拠性を覆い隠す(主として)想像的なものである。
2011-10-30 02:20:10自らの無根拠や無能力に目をつぶっていられるこの想像的段階に安住することは、幼児にとって快いことではある。この段階が鏡像段階に対応する。
2011-10-30 02:50:11人間は、いつまでも鏡像段階に留まることは許されず、やがて成長にしたがって自己同一性(仏:identite)や主体性(仏:sujet)をもち、それを自ら認識しなければならない。その際には言語の媒介・介入が欠かせない。
2011-10-30 03:20:12現実界・象徴界・想像界(仏:le Reel, le symbolique, l'imaginaire)とは、主にジャック・ラカンの精神分析理論で用いられる、人間にとっての世界の在り方ならびに分類。
2011-10-30 04:20:121974年から1975年にかけてのセミネール「R.S.I.」に詳述され、シェーマRSI(schema RSI)と概括され、RSIと略称される。
2011-10-30 04:50:11フロイトの現実原則や、カントの命題"ein leerer Gegenstand ohne Begriff"(「掴み得ぬ空虚な対象」。独語)などから敷衍した概念で、空虚で無根拠な、決して人間が触れたり所有したりすることのできない世界の客体的現実を言う。
2011-10-30 05:20:11ちなみに、フロイトの言う心的現実(英: Mental Reality)と、ラカンの言う現実(仏: le Reel)とは、まるで異なった概念なので注意を要する。
2011-10-30 06:20:11ラカンによれば、現実とはけっして言語で語り得ないものであるが、同時に人間は現実を言語によって語るしかない、という一見逆説的なテーゼが成り立つ。
2011-10-30 06:50:11これは、その大事件という現実を、言語という象徴的なものを以って描き出そうとしているわけである。ある証言者は事件の決定的瞬間を語り、別の証言者は事件の背景に隠された事情を語るかもしれない。
2011-10-30 07:50:12こうして、あらゆる角度から証言がなされ、これらを集めてマスコミは「事件の全容を解明しよう」とする。しかし、その事件をすべての角度から語り尽くすのは不可能である。
2011-10-30 08:20:13現場にいたマスコミであっても、事件の一部分を体験していたに過ぎないのであり、言葉では事件を飽くまでも断片的に大雑把に伝えることしかできないのである。
2011-10-30 08:50:12ところが同時に、人は「言語でしか現実を語れない」。これら二つの命題は、平板に見れば矛盾しているかのように聞こえるが、どちらも的を射ているようにも思える。ラカンはこの現実界の性質をメビウスの輪のような立体的な論理として紹介する。
2011-10-30 09:50:11「言語との出会い」は、現実をラカンのいう「不可能なもの」(仏: l'impossible)に変える。われわれは一生、現実に触れるということに対する抵抗とあこがれの間で揺れ惑う。
2011-10-30 10:20:12そういうことは日常的に起こる。むしろほとんど本も読まない一般の人にとっては、象徴の世界こそ縁遠く、日々現実と切磋琢磨しながら学ぶのである。
2011-10-30 11:50:12大工の入門者が経験を積むことを考えよ。ラカンは精神病を条件づける要因として、このことを見出した。またラカンは、人は、すべて世俗的な価値体系を脱すると思われる「死ぬ瞬間」にも現実が見えるのではないか、とも言っている。
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