攻撃衝動の集団的組織化とネルフ・ゼーレ・戦略自衛隊-バタイユ的解釈-
- Abraxas_Aeon
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「他者の無限の否定によって肯定される自己の至上権の要求」という点について、「碇シンジはサードインパクトを引き起こした時に全ての他者も自分も死んでしまえと、自己も否定していたではないか」という突っ込みがあったとしたら、「その彼の主張自体が自己肯定の至上権の要求だ」と応えておこうか。
2010-05-27 20:44:34サド的宇宙の原理から見れば、碇シンジは最初から最後まで「逃げっぱなし」である。他者から逃げ続け、挙句の果てにその絶対的自由の境地である他者の否定の行き着く所[=無の空間を開く]までの窮極的な蕩尽を引き起こしながら、最後に己れをその至上権の犠牲に捧ぐことからも逃避して没落したと。
2010-05-27 20:57:56@MUMUMU4yyk 最初から最後まで、バタイユだけで説明するとすれば一貫して暴力・蕩尽・躁宴・犠牲・戦争・エロティシズムのアニメでしょうw。それを如実に表現してるのがフルオープニングビデオだともいえるのでは。
2010-05-27 21:12:14@Abraxas_Aeon 残酷な天使のテーゼにネオ麦茶のAAを使ったFLASHは遺骸にも本質を突いてるのか…
2010-05-27 21:15:28@Abraxas_Aeon 西鉄バスジャック(古っ http://www.mimetto.com/flash/1112
2010-05-27 21:23:53.@hakobneさんのツイートにお応えする形になるか分からないが、純粋に、既に述べてきた聖俗区分に関してもう一度言えば、俗の時空が日常における禁止に従った理性ある禁欲的な行動を尊重する時空、聖の時空が、その禁止を本質的に違反するお祭り騒ぎの時空。
2010-05-27 22:20:48このお祭り騒ぎの時空は、エロティシズムの面から言うと、性的放縦の時空であり、宗教的な面からいえば犠牲、殺人の禁止の違反の時空だということになる。バタイユが文学について、それが宗教的犠牲の衣鉢を継ぐものとしての性格を持っているということはアニメに関しても適用できるのではなかろうか。
2010-05-27 22:24:55サドが文学という虚構上において作り出した至上者は、バタイユにおいて、文学という自由の空間をうまく使っての「現実の制限のないもの」を徹底的に追求したものだと目されている。アニメは、自分の思惑を多少の制約があるとはいえ、現実とは一切無関係のファンタジックな空想を描き出すことができる。
2010-05-27 22:30:34それは誰にしても同じである。禁欲の縛り、即ち現実における禁止を免れ、その製作においては放縦的に自分の思うままに描き出すのである。たとえば宮崎駿監督を見てみよう。彼は、自分はアニメがなければとっくに犯罪者になっていたかもしれないと語っている。
2010-05-27 22:34:16これはアニメにその禁止に対する違犯、放縦の時間を当てはめているとはいえないだろうか。そして彼にとって一種のお祭り騒ぎであると考えている、ということを説明できるのではないか。宮崎監督がアニメを製作することに「聖性」をみているのではないか。そしてそれを見る観客もまた聖なる時空にいる。
2010-05-27 22:40:17これに対して、ある意味神聖化されすぎているエヴァの製作者・庵野秀明監督は、当時からエヴァにおいて、自分の「現実認識」=「閉塞した世界」を描き出すということを、念仏のように唱える癖がある。自分の「プライベートフィルム=私秘的な世界」であるというにもかかわらず、そういう意識があった。
2010-05-27 22:50:47庵野監督は自分の現実認識をアニメに投影しようとして、逃げてはだめだと、あたかも自身の私秘的な世界をアニメに描き出すことを、現実を描き出すことと同一視し、自身に禁止を課していた。これはコミック版一巻の、製作に当たっての序文に書き記されていることに基づいている。
2010-05-27 22:54:26宮崎監督と庵野監督とでは、本質的には自分の「私秘的な世界」を描いている、ということに関してはまったく変わらない。しかし宮崎監督がそれを描き出す事を本来的な意味での聖の時空と見做しているのに対し、庵野監督は俗の時空だと見做しているという、認識の逆倒が生じているといえるのではないか。
2010-05-27 22:59:44簡単に言えば、空想を描き出す事を空想であると割り切って描きだすことを是とし、それが俗の時空とは切り離された聖の時空であると割り切っているのが宮崎監督。空想を描き出しているにもかかわらず、それを空想ではなく、現実であると強調して力説しようとするのが庵野監督、と説明できる。
2010-05-27 23:05:36@mittsko あ、それとリツイートしてくださっておられましたが、私としては聖俗区分を、あのバタイユ解釈の仕方に基づきつつ、非日常性が日常化したというのを宮崎駿と庵野秀明の比較をすることで出そうと思っています。後者は特に神聖化されやすいですからw。丸山圭三郎の第三の狂気とかも。
2010-05-28 23:49:27@Abraxas_Aeon あの囀りで、実はちょっとわからないことがありました 質問させてください あの聖俗概念は、バタイユ的 なんでしょうか…?
2010-05-28 23:53:11@Abraxas_Aeon そうですか、ならいいんです 僕のほうが、ぜんぜんバタイユ素人 なんですからww 失礼しました
2010-05-28 23:58:08@mittsko いえいえとんでもないです、私こそ素人の見解ですw。何か違和感がありましたら突っ込んでくださいませ。文学における悪徳の話とアニメの話とが繋がらないかなぁと思っていたんですが。
2010-05-29 00:04:12