徳川家康と石田三成の本当の関係は~「不倶戴天の敵」?「むしろ仲は良好」?

ドラマ「どうする家康」での今後の描き方が注目される(予告編などで匂わせあり?)ほか「家康と三成のスマホ」という作品でその辺が描かれたようです。議論はいまのところ分かれているもよう。
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木戸唯 @6vdsuuaqZqwFXRy

@HIRAYAMAYUUKAIN 戦前までの三成像を一新した司馬遼太郎の関ヶ原版三成も、篤い忠義と正義感故に豊臣に代わって天下を取ろうとする家康絶許マンに描かれていたせいで、家康憎しというイメージはさらに広がってしまいましたね。

2023-07-13 23:30:20
Louis (ルイ) @LouisGordian

@HIRAYAMAYUUKAIN 直江兼続の大河の石田三成が記憶に残っています。今回は七之助さん✨どんな三成像なのか、楽しみにしています!

2023-07-15 01:12:58
こま@人造生物03RIA-紅 @KOMA_MUGEN

世間一般のイメージには反してますが、大谷吉継は関ヶ原直前まで家康との仲は全然悪くなく、会津征伐軍にも普通に加入してました そこからマッハで家康を裏切って三成について西軍最強武将になるんだが。お前マジで何があったの? #家康と三成のスマホ

2023-09-09 00:20:49
そ🐧め🐧は @sometouken

三成自身はギリギリしてるようですが家康に庇ってもらうのが一番身の安全確保なんだよね… あと刑部は実際家康の評価も高くて仲良好だったそうだからあの反応は納得です #家康と三成のスマホ

2023-09-09 00:34:14
古上織蛍 @koueorihotaru

『真田丸』では真田信繁が主人公であるにも関わらず、信繁兄の信幸と石田三成との交友が描かれなかった。家康が主人公の『どうする家康』で別にこれを描く必要はないのかもしれないが今回は「実は家康と三成は仲が良かった」路線で行くみたいなので、是非取り上げてほしい。 koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2016/05/…

2023-09-10 16:03:51
魔戒法師 松井 @matsuineverever

@DoruotaK80250 石田三成と家康は実際はそれほど仲悪くなかったんじゃねえかな? 石田三成が加藤や福島あたりに命狙われたときに石田三成が助けを求めたのが徳川家康なんよね 津軽為信や南部利直の不仲を仲介したりとかそういうことを家康はよくしていたから豊臣家中では頼られていたのよね

2023-09-10 21:10:42
陰陽師A @onmyouji00

@HIRAYAMAYUUKAIN 他人様の著書に丸投げとは 反論に対する答えになってないですよ🤷‍♂️ pic.twitter.com/GjbuSCnEzj

2023-09-15 12:03:39
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やすべ @evpU0dvFJ1Xz0Id

SNSで最新学説を教えてくれるのまーじありがたすぎて感謝感謝なんだよなぁ。 参考文献までついてありがたすぎる。 twitter.com/hirayamayuukai…

2023-09-15 12:13:21
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

忙しいので放置してたら、誹謗中傷が湧いてて面倒くさいね。まず、現状の石田三成研究として、谷徹也氏編『石田三成』、大谷浩司氏編『石田三成』、中野等氏著『石田三成伝』の三著作を見ると、少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まるが、政権運営では協調し続けている。また、三成暗殺未遂事件は、訴訟だという学説が強まっており、家康は三成隠居で事態の収拾を図ったとされる。その後の家康暗殺計画時も、三成は反対の立場だったのではないかと指摘され始めている。問題なのは、前田攻めの計画や、上杉攻めの問題で、大名統制の在り方に政権内部で分裂が発生したことが大きい。ただ秀吉存命であれば、大名に上洛命令を出し、拒否したり動きがおそければただではすまない。豊臣体制の求心力が失われる可能性もあった。上杉攻めは、強引という印象だが、周辺の大名からの訴えもあり(これはさらに要精査)、政権を預かる立場として無視出来なかったとも言える。それぞれの立場や、思惑が交錯して反家康連合が形成される。その核となるのが「内府違いの条々」である。石田三成文書の集成を行っている谷氏によれば、三成と家康の対立は、家康暗殺計画頃までは兆候がないとされる。やはり、その後の政局をよく分析する必要があるのだろう。いまだに軍記物や、幕府編纂物等の影響が強いのだが、豊臣時代の研究は着実に進んでいる。「真田丸」の時よりも進んでいる。なお、私には大坂の陣についての著作もあるよ(『真田信繁』)。

2023-09-15 11:38:23
ふつうのしろくまのくま(Minami,Seiichi) @nancorocolo

光秀と同じで、三成は秀吉公の御恩に報いるために幼君を守って、義のために立ち上がった、のでないと我慢出来ない人が多くいるのでしょう。 twitter.com/HIRAYAMAYUUKAI…

2023-09-15 12:42:54
馬の骨 @koiginu_iwate

僕はめちゃくちゃ石田三成好きでアレルギーレベルの家康嫌いだし、歴史にもさほど明るくないが、それでも三成が家康を嫌っていたとは思えないが… 何故自信満々で平山先生に意見できるのかわからん… むしろ三成が家康を嫌っていたに決まっている、と主張する方々の論拠はなんなのだろう…? twitter.com/hirayamayuukai…

2023-09-15 14:35:46
目つきの悪いゲ・ベルス(Kankan) @kankan1700

@HIRAYAMAYUUKAIN 戦国時代界隈もそこまで安定した界隈ではないのか...

2023-09-15 15:24:16
立花積読斎 @lihuatongying

分かるものが分かる、関ヶ原合戦の政治、合戦史再考は始まりばかりです、未整理史料はたくさんあります、進捗によれば、古い「常識」を一変するの可能性は大きいです、安易に「通説」を持ち出して学者の新説を「妄言」と断言するやつは、已れの不勉強を現すのみ twitter.com/HIRAYAMAYUUKAI…

2023-09-15 17:33:53
古上織蛍 @koueorihotaru

「家康と三成のスマホ」見てないけど、他のTL見るに司馬遼太郎氏元祖の「三成を好意的に見ているようで、上から目線で小馬鹿にする」シリーズと同様のもののようなので、見るまでもない。どうでもよい。

2023-09-14 00:11:51
古上織蛍 @koueorihotaru

「実は家康と三成は仲が良かった」説が出てくるのって、単純に『どうする家康』でそうしたいからのような気がする。

2023-09-15 19:01:20
古上織蛍 @koueorihotaru

そもそも家康と三成とは、秀吉の死の直前まで接点がほとんどないので、仲良いとか悪いとか以前に疎遠なのである

2023-09-15 19:03:10
古上織蛍 @koueorihotaru

「石田三成と徳川家康が仲が悪かった史料はない」というが、豊臣秀吉の死の前後三成を含む四奉行と家康の仲が悪化した事を示す史料はたくさんある。その四奉行の中の「家康打倒最急進派」が三成であるか否かは分からない。その後の歴史で四奉行の中の「家康打倒最急進派」は三成だと思われてる訳だ。

2023-09-15 22:10:04
古上織蛍 @koueorihotaru

「五大老五奉行制」を発案したのは誰か。状況的には石田三成なのではないかと思う。こういった政治力持っている人間が四奉行の中でも他にいないし。慶長三年七月の段階では家康にとって都合のいい二大老制の方向性だったのが八月にひっくり返ってしまったのは、三成の工作によるものなのではないか。

2023-09-16 08:05:46
古上織蛍 @koueorihotaru

毛利重臣内藤隆春が息子元家に宛てた慶長三年九月二日付書状には、「太閤様御事、去廿三日被成御遠行(筆者注:実際に秀吉が死去した日は八月十八日です)之由候、然者五人之奉行と家康、半不和之由ニて、」とあり、実際に秀吉死去直後から五奉行と家康の関係が不和になっていたことが分かる。

2023-09-16 08:24:13
古上織蛍 @koueorihotaru

秀吉の死後、石田三成と徳川家康との仲が協調的に見えるのは、石田三成の目的が「徳川家康打倒」ではなく(「徳川家康警戒」ではある)、(彼の発案したであろう)「五大老五奉行の堅持」にあったから。秀吉死の直後から「朝鮮撤兵問題」という難題があり、国を挙げ協調して対処する必要があった。

2023-09-16 08:30:48
古上織蛍 @koueorihotaru

「慶長三年八月二十八日の四奉行宛毛利輝元起請文」という起請文がある。内容は「「今度定められた「五大老」のうち、たとえ秀頼へ逆心を持つということではなくても、もしも増田長盛・石田三成・前田玄以・長束正家と心を違える者があれば、自分(毛利輝元)はこの四人と協力して秀頼へ奉公する」。

2023-09-16 08:48:49
古上織蛍 @koueorihotaru

上記の起請文は、一般的に徳川家康を警戒する四奉行が、(家康がクーデーター等を起こした場合を想定して)毛利輝元の協力の密約を結んだものとされる。この文書案は見せ消しがあり、その見せ消しをしたのは石田三成であると書かれており、この起請文提出を主導したのは石田三成だったことが分かる。

2023-09-16 08:54:59
古上織蛍 @koueorihotaru

「慶長三年八月二十八日の四奉行宛毛利輝元起請文」を見ても、石田三成と徳川家康が仲が良かったようには全く見えないし、家康を警戒しまくっていた事が分かる。 koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2019/10/…

2023-09-16 08:58:47
リンク 古上織蛍の日々の泡沫(うたかた) 考察・関ヶ原の合戦 其の三十六 秀吉死去前後に作成された起請文について - 古上織蛍の日々の泡沫(うたかた) ☆ 総目次に戻る☆ ☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る ☆考察・関ヶ原の合戦 其の一 はじめに+目次 に戻る ☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献 に戻る 秀吉の死去前後の各大名が取り交わした起請文はいくつかあります。この起請文の変遷から、秀吉死去後の秀頼後見体制をどのように豊臣公議が想定して作ろうとしていたのかを伺うことができます。ここでは、主に堀越祐一氏の『豊臣政権の権力構造』の記述を元にその変遷をみていきます
古上織蛍 @koueorihotaru

では、逆に「秀吉死後、石田三成と徳川家康は仲が良かったかもしれない」話も紹介する。 慶長四年二月九日、石田三成は大坂屋敷で茶会を開く。その時の茶会の客は、宇喜多秀家、伊達政宗、小西行長、神屋宗湛、三成の兄の正澄であり、このとき三成は長崎から来た舶来の葡萄酒を出したという。(続く)

2023-09-16 09:06:15
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