徳川家康と石田三成の本当の関係は~「不倶戴天の敵」?「むしろ仲は良好」?

ドラマ「どうする家康」での今後の描き方が注目される(予告編などで匂わせあり?)ほか「家康と三成のスマホ」という作品でその辺が描かれたようです。議論はいまのところ分かれているもよう。
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侘助 @minoruno

〇〇と〇〇は反目しあってたという定説が要検討案件になったからって、それがイコール〇〇と〇〇実は仲良かったに極端に振り戻して解釈するのも違うと思う。世の中には中庸という概念があるんだから、普通にお付き合いするビジネスライクな関係だってあるんだよ。「解釈」を先鋭化しすぎちゃいかん

2023-09-18 10:38:13
侘助 @minoruno

日本史研究、かつての定説揺り戻し期間に入ってるんだけど、〇〇はこうだった!定説から→いやそこまで断言するほどじゃなくね?色々史料読み直してみようぜ?ほら違う事例色々出てきてまっせ! くらいのニュアンスの定説批判だから極端→極端思考は色々と見誤りまっせ。

2023-09-18 10:43:48
侘助 @minoruno

とにかく皆さん落ち着いて下さい。

2023-09-18 10:50:45
古上織蛍 @koueorihotaru

「徳川家康と石田三成は、秀吉の生前は仲が良かった」ではなく、「徳川家康と石田三成は、秀吉の生前は仲が良い訳でも悪い訳でもなく疎遠だった」が、だいたい正しい。だけどドラマで断片的な史料を駆使して「実は仲が良かったかもしれない」シナリオにしても良いかと思う。

2023-09-18 12:19:36
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

私は、7月13日に石田三成と徳川家康の関係について、次のようなツィートをしました。「それにしても、調べれば調べるほど、石田三成像は江戸時代以来の虚像(主に悪印象)にまみれていて、事実を反映していないなぁ。そもそも家康を目の敵にしていたり、反目し続けていたなんて事実はまったくない。ずっと協調して豊臣政権を支えようとしている。佐和山隠居後に発生した「家康暗殺計画」の時も、家康を支えようとしているし、三成の息子は秀頼に奉公し在大坂であった。しかも彼は家康と非常に懇意だったと記録にある。家康と三成の決裂の過程は、もっと慎重に検討しなければならないと強く感じています。 #時代考証の呟き」  この文章について、出鱈目だなどの反論が出ていました。別に反論するまでもないことだと思い、放置していたら、うるさく絡まれたので、9月15日に取りあえず参照すべき参考文献を掲げておきました。次のようなものです。「忙しいので放置してたら、誹謗中傷が湧いてて面倒くさいね。まず、現状の石田三成研究として、谷徹也氏編『石田三成』、太田浩司氏編『石田三成』、中野等氏著『石田三成伝』の三著作を見ると、少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まるが、政権運営では協調し続けている。また、三成暗殺未遂事件は、訴訟だという学説が強まっており、家康は三成隠居で事態の収拾を図ったとされる。その後の家康暗殺計画時も、三成は反対の立場だったのではないかと指摘され始めている。問題なのは、前田攻めの計画や、上杉攻めの問題で、大名統制の在り方に政権内部で分裂が発生したことが大きい。ただ秀吉存命であれば、大名に上洛命令を出し、拒否したり動きがおそければただではすまない。豊臣体制の求心力が失われる可能性もあった。上杉攻めは、強引という印象だが、周辺の大名からの訴えもあり(これはさらに要精査)、政権を預かる立場として無視出来なかったとも言える。それぞれの立場や、思惑が交錯して反家康連合が形成される。その核となるのが「内府違いの条々」である。石田三成文書の集成を行っている谷氏によれば、三成と家康の対立は、家康暗殺計画頃までは兆候がないとされる。やはり、その後の政局をよく分析する必要があるのだろう。いまだに軍記物や、幕府編纂物等の影響が強いのだが、豊臣時代の研究は着実に進んでいる。「真田丸」の時よりも進んでいる。なお、私には大坂の陣についての著作もあるよ(『真田信繁』)。」  すると、陰陽師Aという人物から、9月18日・20日に次のような批判を受けた。「平山氏の「三著作を見ると、少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まるが、政権運営では協調し続けている。」という発言から、三著作を読んだけど、中野等氏著『石田三成伝』381ページには秀吉が死んだ半月後の9月2日の史料の説明で「家康と五奉行の間にはすでに懸隔が生じており、」と書かれていた。太田浩司氏編『石田三成』224ページは秀吉が死んだ10日後の史料の説明で「この誓約において、四奉行と対立すると見られていた仮想敵とは徳川家康であった。」と書いていた。谷徹也氏編『石田三成』からは平山氏の発言に関係した文は見当たらなかった。三著作は「少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まる」を意図することは書いていない。これって他人の著作を妄言の根拠にした挙句その著作にはそれを意図する文はない、寧ろ逆のこと書いてねぇか??っていう重大な問題なんだよね!「一知半解の輩こそ、デマを撒き散らすトンデモの括りに他ならない。」は普通に平山氏に返ってくるよな」

2023-09-25 22:46:32
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

そこで、この議論をしっかりと検証してみたい。私の議論の焦点をもう一度ここに示すと「(三成が)そもそも家康を目の敵にしていたり、反目し続けていた」という事実はなく、「三著作を見ると、少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まるが、政権運営では協調し続けている」という点にあることをまず押さえておきたい。  まず確認しよう。陰陽師Aが指摘した慶長3年9月2日(秀吉死去の半月後)の史料(毛利家臣内藤周竹書状写)の説明についてである。中野等氏は、この史料から「家康と五人の奉行衆との間にはすでに懸隔が生じており、臨終にあたって秀吉が厳命した「大老」と「奉行」との交誼、協力体制はすでに破綻(「もはや相違」)しているとの認識が、毛利家にあったことがわかる」(中野等『石田三成伝』381頁)と説明している。ここで注意すべきは、①家康と五奉行の関係は「懸隔」が生じたことであり、敵対的対立ではないこと、②わざわざ中野氏が「懸隔」(度外れた隔たり)という用語を使用した理由は、意見の対立があったが、それは敵対的対立でないと評価しているからであろうこと、③そもそも「懸隔」に陥った間柄は、家康と「五奉行」であって三成個人だけではないこと、④その認識は毛利家中のものであること、である。

2023-09-25 22:47:08
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

この9月2日の史料の前提に、8月28日に、五大老の1人毛利輝元が、三成・増田長盛・長束正家・徳善院玄以に起請文を提出し盟約を結んだ動きがある。実をいうと、これが最初の派閥形成の動きであったとの評価がある。水野伍貴氏は、起請文は「秀頼様への逆心」でなかったとしても四奉行に味方することこそが「秀吉様への奉公」に叶うものだと記し、政権での主導権維持を目指したものだと指摘した(水野「合戦に到る豊臣政権内部の動向」太田浩司編『石田三成』223~4頁)。同様の評価は、山本浩樹「石田三成と毛利輝元」(太田編188~189頁)にもある。彼らの目的は、家康が力を持つことを封じ込めるためであった。このことは「五人之奉行と家康半不和之由」(五人の奉行と家康の間柄は不和であるとのこと)と毛利家中では噂されていた。しかし結果は皆さまもご承知の通り、家康と五奉行や毛利輝元との敵対的対立や政権分裂はこの時起きていない。  それでは結果はどうだったか? 9月3日付で五大老・五奉行全員が連署する起請文が作成された(『大日本古文書 浅野家文書』106号)。これは「十人之衆中」が秀頼のために結束することを誓約したもので、「私之遺恨」「徒党」「讒言」などを排除し、十分な情報共有や意思疎通を行って政権運営を行うこととし、意思決定に当たっては「十人之衆中多分ニ付而可相究事」(多数決で決定する)ことが決められた。かくて中野氏が評した「懸隔」は解消されたのである。

2023-09-25 22:47:58
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

このことは何を意味するだろうか? それは8月28日の三成ら四奉行と毛利の派閥形成や、9月2日の毛利家中の認識たる家康と五奉行との「不和」(中野氏が指摘する「懸隔」)とは、政権運営をめぐる意見の相違と衝突に過ぎず、それらは家康を含む五大老と、三成ら五奉行との調整によって収まったのである。ここでは、意見の相違はあったものの、秀頼のために協調することが大事であるということで落ち着いた。ここから、家康と三成の敵対的対立や常なる反目をただちに読み取ることは、結果からの類推というバイアスによる史料読解に陥る危険性がある。もしそうであるなら、家康と五奉行の敵対的対立、常態的反目と読むべきであろうが、そうではあるまい。  ところで、この「十人之衆中」の起請文はどのような成果を生んだのか? このことについては、中野等氏や山本浩樹氏らとの間では評価が微妙に違うものの、①五大老と五奉行が協調して政権運営を行うこと、②家康のほか、輝元ら五大老のメンバーが政治的意思決定に参画する資格を認められたこと、③「十人之衆中」の枠内に家康を封じ込めたこと、④これで五奉行が政権内での主導権確保を維持しようとしたこと、であろう。

2023-09-25 22:48:29
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

なお、三成ら五奉行が政権内での主導権確保を急ぎ、家康を警戒したのには理由がある。それは、山本浩樹氏の指摘(太田編・188頁)が重要だ。すなわち、①三成ら五奉行は、秀吉の信任を拠り所に政権参画を実現していたわけで、彼の死はその地位を揺るがしかねぬ事態であったこと、②秀吉の置目、遺言を奉じるだけでは複雑な状況下での政務は出来ないこと、③朝鮮在陣により長く政権中枢から遠ざけられてきた大名たちが帰還後、異議申し立てに及ぶ事態が想定されたこと、である。  そして、秀吉死後の豊臣体制は、実に帰国した大名らの動きによって崩壊の度合いを早めてしまうのであり、家康と三成の関ヶ原合戦も結局はそれに規定されていくのである。なお、家康と三成は、秀頼を奉じ政権運営を円滑に進めるために、その後も協調しあっている。そのことについては、改めて論じたい。

2023-09-25 22:49:19
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

以上が、私の先行研究と史料から読み取る、秀吉死去直後の家康と三成(五奉行)の関係であるが、如何であろうか? 私は非難されるような、意図的な読解をしているといえるだろうか? 私の主張をここでもう一度繰り返し提示してみよう。「(三成が)そもそも家康を目の敵にしていたり、反目し続けていた」「少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まるが、政権運営では協調し続けている。」 以上の文章は、出鱈目だといえるだろうか? 陰陽師Aなら「対立」はあるじゃないか、と言いそうだが、私の分脈をみれば、私の想定する「対立」とは、「敵対的対立」「恒常的な反目」「命を狙った敵意」などであることは明白であろう。後は、読者諸賢のご判断に委ねたい。

2023-09-25 22:50:36
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