徳川家康と石田三成の本当の関係は~「不倶戴天の敵」?「むしろ仲は良好」?

ドラマ「どうする家康」での今後の描き方が注目される(予告編などで匂わせあり?)ほか「家康と三成のスマホ」という作品でその辺が描かれたようです。議論はいまのところ分かれているもよう。
21
古上織蛍 @koueorihotaru

私婚違約事件の際、通説では石田三成は徳川家康糾弾派の先頭に立っていた事になり『当代記』によると徳川家康暗殺すらたくらんでいたことになる。『当代記』は、江戸時代の徳川家よりの二次史料であり、石田三成関連では信用できる史料ではないが『真田丸』ではこの記述を採用した描写がある。(続く)

2023-09-16 09:22:40
古上織蛍 @koueorihotaru

この時の客の中に伊達政宗がいることに注目。(実は石田三成と伊達政宗は仲が(本当に)良い)。 当時は私婚違約事件で徳川家康が糾弾されてた時期であり、政宗は私婚違約事件の当事者の一人である。三成はこの事態の収拾と和解を目指すため伊達政宗、大老の宇喜多秀家を招き茶会を開いたとみられる。

2023-09-16 09:15:12
リンク 古上織蛍の日々の泡沫(うたかた) 伊達政宗と石田三成について(2) - 古上織蛍の日々の泡沫(うたかた) ☆古上織蛍の日々の泡沫(うたかた) 総目次 に戻る ☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る 前回の続きです。(前回のエントリー→)伊達政宗と石田三成について(1) (以下の家康の私婚違約事件の経緯については、白川亨『石田三成の生涯』新人物往来社、1995年 p202~203を参照しました。) 秀吉が慶長3(1598)年8月18日に亡くなった後、早くも家康は専断を始めます。それまで秀吉の許可を得ない大名同士の婚姻は、大名同士の勝手な同盟になるため、掟で禁止され
古上織蛍 @koueorihotaru

しかし、この『当代記』においても、この暗殺計画は「物言(噂話)」としてしか書いておらず、なぜか噂話だと最初に筆者自身が書いているにも関わらず、続けてその噂話が事実であるかのうように記述を進めるという、詭弁論のような記述となっている。

2023-09-16 10:16:05
古上織蛍 @koueorihotaru

つまり、慶長四年二月九日に石田三成は宇喜多秀家、伊達政宗らを招いて茶会を開くなど、「私婚違約事件」の事態の収拾をはかるように動いており、江戸時代の二次史料にあるような、「徳川家康弾劾の急先鋒」だったというのは誤りなのではないかと考えられる。

2023-09-16 10:38:45
古上織蛍 @koueorihotaru

「徳川家康と石田三成は実は仲が良かった」説をとると、徳川家康が中立的な親切心で石田三成を軽い処分に留めたとかいう訳の分からない「美談」にしてしまだろから、それは絶対にやめてほしいが、NHKだとやるんだろーねー。(続く)

2023-09-16 10:44:15
古上織蛍 @koueorihotaru

当時の書状等を見ても、七将と徳川家康がズブズブの関係なのは丸わかりの話であり、三成側の武将でも七将の背後に徳川家康がいるのは公然の話であり、「隠れた黒幕」ですらないのは当時から分かっている話。家康が善意の中立者である余地はない。

2023-09-16 10:47:04
古上織蛍 @koueorihotaru

最近「七将襲撃事件」は「訴訟事件」だったという説が出ているが、当時の感覚においては、糾弾する側が伏見城下に手勢を持って押しかけ七将のバックにいる大老(家康)がそれを公認することを「訴訟」と呼ぶのだろうか。言うのかもしれないが現代的な「訴訟」だと誤解する人が増えるのでやめてほしい。

2023-09-16 10:51:11
古上織蛍 @koueorihotaru

七将襲撃事件の始末において、石田家は「敗れ」、徳川家康に「屈服」したのである。両者は対等な関係ではない。その後の石田家と徳川家康との「協力関係」を見て、「実は徳川家康と石田三成は仲がよかった」とするのは誤りであろう。

2023-09-16 10:55:00
ラムザ@白魔道士投資家 @investramza

その通りだと思います。 そしてこれが家康が三成を主敵と見定めた契機かと。 七将襲撃事件で三成をターゲットにしたのも、もっとも有能な政敵を最初に失脚させるためでしょう。 twitter.com/koueorihotaru/…

2023-09-16 10:57:17
古上織蛍 @koueorihotaru

「五大老五奉行制」を発案したのは誰か。状況的には石田三成なのではないかと思う。こういった政治力持っている人間が四奉行の中でも他にいないし。慶長三年七月の段階では家康にとって都合のいい二大老制の方向性だったのが八月にひっくり返ってしまったのは、三成の工作によるものなのではないか。

2023-09-16 08:05:46
古上織蛍 @koueorihotaru

徳川家康が登坂の折に石田三成や兄正澄の屋敷を使ったという話も「仲が良いから」ではなく「石田家は家康に屈服している」という事のPRに過ぎない。暗殺の疑いをかけられた前田利長の上洛阻止のため、石田の手勢を派遣させられたのも「屈服」の証。石田三成は腸が煮えくり返る思いで一杯だっただろう。

2023-09-16 11:02:45
デミトリー @demtry_zion

三成と家康は仲が良く、豊臣体制を支える関係にあったって話。これまでの物語的にはかなりのズレのある話だとは思う。これを主軸に考えると三成強訴を家康が三成の蟄居で治めたのも、家康暗殺未遂事件で大野治長が流罪(佐竹預かり)になったのもそのままの意味ってことになるのかな。

2023-09-15 19:06:17
SHUN@オンライン三成会 @SHUN420922082

@HIRAYAMAYUUKAIN 三成と家康の関係に関しては平山氏の見解と同意見です。 両者は常に対立関係にあったわけではなく協調していた期間も多い。 私見では、両者の協調がよく見えるのは朝鮮の役(壬申戦争)収拾に関わる時期と思います。 勿論秀吉在世時でも東国政策等では対立軸にいますから、この辺是々非々だったかと。

2023-09-16 07:58:24
古上織蛍 @koueorihotaru

@SHUN420922082 @HIRAYAMAYUUKAIN 秀吉死後の三成は「五大老五奉行制堅持派」であり、「徳川家康を目の仇・打倒派」ではない事は確かにそうだと思われます。家康が「五大老五奉行制堅持派」である限りにおいては協力関係にあるのは当然といえます。

2023-09-16 11:09:00
古上織蛍 @koueorihotaru

浅野長政・土方雄久・大野治長の「徳川家康暗殺計画」を通報したのは、石田三成だという記述が「看羊録」にあるが本当だろうか。(確か「家康に媚びるつもり」でと悪意的に書かれている)看羊録は、幽閉された朝鮮儒者の記録であり、書かれている情報は全て伝聞情報である。信頼できるかは怪しい。

2023-09-16 11:22:11
古上織蛍 @koueorihotaru

「実は三成と家康は仲が良かったか?」について結論としては「江戸時代に作られた『常に家康敵視の三成』」は誤りだが、毛利の起請文から分かるように一定の警戒はしていた。家康が「五大老五奉行制」を維持する分には協力関係にあり、私婚違約事件の時も糾弾ではなく収拾をはかろうとしていた、かな。

2023-09-16 14:58:39
ようとんじょう(足を洗った杏林kaba) @gaagleac108

@HIRAYAMAYUUKAIN 徳川家光の側室にお振の方(石田三成ひ孫)がいたり、杉山八兵衛(石田三成の孫)は江戸城に登城しているので家康(徳川家)は石田家に対して遺恨はないと思います。 むしろ石田三成の血筋や関係者を取り込んで徳川をアップデートする意図を感じます。

2023-09-15 19:38:00
橋場 日月 @akira_848

中井俊一郎先生から御高著『知られざる三成と家康』を御恵送いただきました。厚く御礼申し上げます。 犬猿の仲と言われた2人については、奇しくも今夜スマホを介した傑作短編ドラマが最終回を迎えますが、関ヶ原の2年前、2人は仲睦まじかった?パンドラの箱はいかに開け放たれたのか?amazonにて発売中 pic.twitter.com/3i7l4u1pru

2023-09-15 23:03:20
拡大
明石全登 ゆかりの地@吉永町へかもん♡ @k2BIiTNa1g2uojl

>上杉攻めは、強引という印象だが、周辺の大名からの訴えもあり(これはさらに要精査)、政権を預かる立場として無視出来なかった… 自分も最近まで家康の上杉攻めをそこまでする必要があるのか不思議に思っていたけど、河内将芳 著「秀吉没後の豊臣と徳川」で紹介された史料を見て少しだけ納得した twitter.com/HIRAYAMAYUUKAI…

2023-09-16 01:15:31
K・HIRAYAMA @HIRAYAMAYUUKAIN

忙しいので放置してたら、誹謗中傷が湧いてて面倒くさいね。まず、現状の石田三成研究として、谷徹也氏編『石田三成』、大谷浩司氏編『石田三成』、中野等氏著『石田三成伝』の三著作を見ると、少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まるが、政権運営では協調し続けている。また、三成暗殺未遂事件は、訴訟だという学説が強まっており、家康は三成隠居で事態の収拾を図ったとされる。その後の家康暗殺計画時も、三成は反対の立場だったのではないかと指摘され始めている。問題なのは、前田攻めの計画や、上杉攻めの問題で、大名統制の在り方に政権内部で分裂が発生したことが大きい。ただ秀吉存命であれば、大名に上洛命令を出し、拒否したり動きがおそければただではすまない。豊臣体制の求心力が失われる可能性もあった。上杉攻めは、強引という印象だが、周辺の大名からの訴えもあり(これはさらに要精査)、政権を預かる立場として無視出来なかったとも言える。それぞれの立場や、思惑が交錯して反家康連合が形成される。その核となるのが「内府違いの条々」である。石田三成文書の集成を行っている谷氏によれば、三成と家康の対立は、家康暗殺計画頃までは兆候がないとされる。やはり、その後の政局をよく分析する必要があるのだろう。いまだに軍記物や、幕府編纂物等の影響が強いのだが、豊臣時代の研究は着実に進んでいる。「真田丸」の時よりも進んでいる。なお、私には大坂の陣についての著作もあるよ(『真田信繁』)。

2023-09-15 11:38:23
SHUN@オンライン三成会 @SHUN420922082

@HIRAYAMAYUUKAIN 三成と家康の関係に関しては平山氏の見解と同意見です。 両者は常に対立関係にあったわけではなく協調していた期間も多い。 私見では、両者の協調がよく見えるのは朝鮮の役(壬申戦争)収拾に関わる時期と思います。 勿論秀吉在世時でも東国政策等では対立軸にいますから、この辺是々非々だったかと。

2023-09-16 07:58:24
アリノリ @a_ri_no_ri

関ヶ原前に石田三成と徳川家康の「仲は悪くなかった」というのは、これまでのドラマで普通だった「三成が家康を(関ヶ原以前から)警戒していた」のを、「違います」とするものなのだろうな。 両者の間に「明確な対立や警戒」が見られないのは確かでも、それが仲がいいという証拠にはならない。

2023-09-16 08:04:51
アリノリ @a_ri_no_ri

前にも書いたが、あの時代で「仲がいい」と形容できるのは、互いの屋敷を訪れる、一緒に寺院などを訪問する、業務以外の書状のやりとりが複数回確認できるなどがある場合だと思っている。家康と石田三成の間にはこれらが1度も確認できないので仲がいいとは言えない。

2023-09-16 08:14:05
ふじわら @zen9_go3

以前は家康と三成は仲が悪いと言われることが多かったけど、最近は仲が良かったという説が主流なのかな。そうすると、関ヶ原がめちゃくちゃつらい。仲が良かった2人が相対することとなって、討たねばならないなんて今から泣ける。古沢さんそういうの上手そう~~!!ど家の今後の展開に楽しみすぎる。

2023-09-16 08:39:34
千鶴 @Tdr_moeguti4065

@yashi3co おはようございまーす!毛利さんちの内藤さんが結構書状に色々書いてくれているので輝元と三成が何しているかよくわかりますね。

2023-09-15 09:31:13