近世以前の日本において、新生児に生存権はあったのか?
- uncorrelated
- 2654
- 1
- 0
- 0
@zzTyV6vdCnkuLnm @eternal2konofan 現代でも前近代的な社会ではやっているところはあって、NHKが取材したヤノマミ族の嬰児殺しは有名ですね。www2.nhk.or.jp/archives/movie…
2023-12-01 17:26:31@uncorrelated @eternal2konofan 江戸時代の人が、赤ちゃんを人間ではなく動物だから殺してもいい存在だと考えていたというのは無理がありますよ。 動物も供養されることがあるというのは、赤ん坊と動物は同じだったという証明にはなりません。 lifedot.jp/mizuko-kuyou/
2023-12-01 16:22:24@zzTyV6vdCnkuLnm @eternal2konofan ところで私もこの瞬間まで知らなかったのですが、衝撃の事実が。「仏教には,水子を祀るという教義はないし,水子を各家で祀るという祖先祭祀も,前近代の日本にはまったくなかった。」rekihaku.repo.nii.ac.jp/record/697/fil… そうです。
2023-12-01 17:37:06@uncorrelated @eternal2konofan 近世の日本に、全く水子供養がないわけではないと書かれていますし、仏教者の側も、赤ん坊を殺すことは悪い事だと考えていたと読み取れますね。 pic.twitter.com/nqH3OqsB10
2023-12-01 18:09:49@zzTyV6vdCnkuLnm @eternal2konofan 近世と言っても1793年の水子塚が初みたいですね。幕府が間引きを減らすためにやっていた政策のようですね。また、新生児の権利を侵害するから悪いと言う話でも無さそうです。
2023-12-01 18:36:54@uncorrelated @eternal2konofan 浄土真宗では、今も水子供養はしません。しかし幼くして亡くなった子の特別な供養は、水子供養とは別に古くからあったそうですね。 ji-n.net/butsuji/%E6%B0…
2023-12-01 21:50:59@zzTyV6vdCnkuLnm @eternal2konofan 詳細不明な伝聞の紹介であまり一般的なものではないのが分かりますし、また成人とは扱いが異なりますね。
2023-12-02 04:49:39太平寺に1825年に奉納された絵馬があります。絵馬には、鬼の形相をした母親が、両手で赤子の手を押さえつけ、右足で赤子の腹部を踏みつけている凄惨な様子が描かれています。そして間引きを戒める文章の一節に、「禽獣すら子を愛することを知る、いわんや人間をや」とありますね。 間引き絵馬、那須烏山デジタル博物館 city.nasukarasuyama.lg.jp/page/page00173…
2023-12-02 05:37:52@uncorrelated @eternal2konofan 「禽獣すら子を愛することを知る、いわんや人間をや」という文章は、人間の子供は禽獣に等しいという価値観だったなら意味が通らないと思います。 人間の親にとって、人間の子供は大切な存在であるという文章だと解釈するのが自然かと。
2023-12-02 05:50:50@zzTyV6vdCnkuLnm @eternal2konofan ほとんど悪気なく間引きがされていて、為政者は(労働力確保や男女比を近くするために)子を大切にせよと啓蒙していたそうで、その絵馬もそういう文脈ででてきたと推察されていますね。
2023-12-02 05:56:01@uncorrelated @eternal2konofan 為政者が「子を大切にせよ」と啓蒙していたなら、人間の子供は禽獣とは違うって価値観が当時にあったということにしかなりませんよ。 「禽獣すら子を愛することを知る、いわんや人間をや」という文章は、近世の日本に、人間の子供は愛されるべきだという価値観があったということです。
2023-12-02 06:04:07城興寺にある安政4年(1857)と記された間引き絵馬は、女人講中が、赤子の往生を願って、この絵馬を子安地蔵に奉納したものです。延生地蔵尊を信仰する婦人達が、延生地蔵尊にお参りにやってくる人達に対し、目につくところに掲げることによって、間引きを戒めようとしたものです。 女人講中も、為政者の側なんですか? 芳賀町/間引きの絵馬 town.tochigi-haga.lg.jp/kurashi/bunka/…
2023-12-02 06:06:43@zzTyV6vdCnkuLnm @eternal2konofan 当時の経緯が分からないのですが、女人講中といっても間引きを戒めているわけですから、為政者側の発想でしょうね。そして戒めないといけない状況であったことが分かります。
2023-12-02 06:11:57@uncorrelated @eternal2konofan 寺に参拝してるだけの女性達を、為政者側とするのは無理でしょう。 間引きは、やらないと生活できなくなって一家丸ごと飢え死にしかねない等の理由から行われていたのです。悪いことではないと思われていたからではありません。
2023-12-02 06:17:17延命山菊水寺には「子がえしの絵図」が掛かっています。井上如常が奉納したものです。如常はこの絵の中で、嬰児殺しの悲惨な風習を戒めて、我が子を圧殺するなど極悪非道の所業だと母親を激しく責めています。 その内容は「この女は顔は優しげなれど、我が子さえ殺すからにはまして他人の子を殺すことは何とも思うまい。さすれば、鬼のような心にて、顔つきに似合わぬ強欲な女なり。」というものです。 井上如常は、不殺生戒の立場から堕胎・棄児の防止を世に訴えて、社会救済事業につくし、聖人と言われた人です。 札所33番、延命山菊水寺 fudasho.com/?page_id=401
2023-12-02 06:20:46@zzTyV6vdCnkuLnm @eternal2konofan 女人講中は女性の団体ですが村の寄り合いなので、為政者の意向を忖度するところでもあります。殺生ですからよいこととは思われていなかったと思いますが、それは新生児を成人と同様に人格として考えて、よくないことだとはしていなかったと思います。間引きは名前をつける前に行ったそうなので。
2023-12-02 06:24:05@zzTyV6vdCnkuLnm @eternal2konofan 井上長次郎は幕末から明治の人で、近世ですが後期ですね。先ほど出てきた太平寺の絵馬は1825年、城興寺の絵馬は安政4年(1857)でした。1793年の松平定信の水子塚から、徐々に嬰児殺しを戒めるようになっていったとは言えると思います。しかし、殺人とは看做されていないようです。
2023-12-02 06:29:55@uncorrelated @eternal2konofan 間引きは、主に江戸時代中期以降、財政困難に陥った諸藩が、貢租収取を強め、更に飢饉も重なり農民の生活が苦しくなって行われたものです。 飢饉の時には間引きだけではなく一揆も増えました。飢え死にするかどうかの極限状況で行われていたのです。 青蓮寺の間引き絵馬 city.ota.gunma.jp/page/4491.html
2023-12-02 06:47:46@zzTyV6vdCnkuLnm @eternal2konofan 最も盛んだったのは江戸時代と言われますが、平安時代の文献でも確認できるそうです。また、江戸中期に盛んであったとしても、新生児に生存権があったと考えられることを示すものではないです。
2023-12-02 06:55:53@uncorrelated @eternal2konofan 「全ての命は、尊重されなければいけない」という主張は、赤ん坊の命もまた尊重されなければいけないという主張を含んでいます。 不殺生戒の教えは、人格を持っていない存在に対しても生きる権利を認めてるのと同じです。
2023-12-02 06:51:24@zzTyV6vdCnkuLnm @eternal2konofan 畜生の命もふくめて尊重するような話ですから、新生児が人権を持つ人格であることを意味する議論にはなりません。twitter.com/zzTyV6vdCnkuLn…
2023-12-02 06:56:59@uncorrelated @eternal2konofan 「子供を殺さなければ一家全員が飢え死にしてしまう。他に取れる選択肢はない」という状況下での殺人であれば、現代の法律でも罰することはできません。 罰することができないのは、他には一家全員が飢え死にする選択肢しかない状況だったからです。悪いことだと思われていないからではないです。
2023-12-02 06:59:23@zzTyV6vdCnkuLnm @eternal2konofan 「子供を殺さなければ一家全員が飢え死にしてしまう。他に取れる選択肢はない」と親が考えて新生児を殺したら、不法行為なので罰せられます。量刑は考慮されるかも知れませんが。twitter.com/zzTyV6vdCnkuLn…
2023-12-02 07:02:35@zzTyV6vdCnkuLnm @eternal2konofan 近世までの日本では嬰児殺しは一般的で、嬰児殺しは殺人罪に問われるようなものでは無かったです。また、自然のものでも、人為的なものでも、早逝した新生児を、死亡した成人と同様に弔う習慣はなかったです。そもそも弔う習慣も1793年の水子塚までなく、一般化したのは1970年以降でした。
2023-12-02 07:06:14