竹田青嗣『哲学講義21講』まとめ

竹田青嗣『哲学講義21講』を読みながらツイートしたものまとめ。 要約であったり引用であったり、自分の言葉で説明した場所であったりするので、必ずしも本の内容と一致しているかどうかは保証できません。
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H.Takano @midwhite

即ち正命題の系列の推論をする人は、世界と世の中に親和感を持ち、道徳と人間の価値を信頼し、したがって宗教や神の観念も大事にする、素直で日常的な人間の営みを受け入れる常識的タイプであり、反命題の系列はその逆の哲学好きタイプで、少数派である、と。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-16 18:30:53
H.Takano @midwhite

カントの主著『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』はそれぞれ、哲学の中心テーマ「真」「善」「美」を扱っている。『純粋理性批判』は「真」、つまり「認識」に関する哲学だったが、『実践理性批判』は「善」、つまり「道徳」に関する哲学である。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-19 11:34:52
H.Takano @midwhite

カントは『実践理性批判』の中で、「善」の定義として「純粋実践理性の根本法則」を提出している。即ち、「君の意志の格律が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」。つまり、君の主観的ルールが客観的ルールに沿うよう行為せよ、と。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-19 11:42:04
H.Takano @midwhite

カントの時代に優勢だった善の考え方は、人間の自然な善き感情が善を生むとする道徳感情論だった。しかし人々の間で自然に同一の「善き感情」が湧くことはありえず、様々な善が生まれて互いに対立してしまう。感情を善の基礎とすれば、この問題は克服できない。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-19 15:28:36
H.Takano @midwhite

そこでカントは、善の基礎をあくまで理性に置こうと考えた。つまり彼は、合理的な理性によって、必ず客観的な善に到達できることを前提とした。もし逆に、客観的な善の判断が不可能なら、再び信念の対立が起こってしまう。だからこそ彼は判断は可能と断言した。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-19 15:38:30
H.Takano @midwhite

では、いかにして客観的な善は判断可能なのか。カントは、「誰がそれを行っても、社会の全体に多少なりとも人間の善と幸福と平和と秩序をもたらすような、そういう行為のルールに従って行為せよ」という命令を以って善であるとした。この命令が定言命法である。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-19 15:47:47
H.Takano @midwhite

カントは善を「善の主観的ルール(マキシム)=善の客観的ルール」が成り立つ行為と定義したが、この定義の意義は三つある。一点目は、「善」をで伝統宗教的な「聖なるもの」から完全に切り離したことである。つまり善を、完全に人間の理性の合理性に基づけた。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-19 16:02:57
H.Takano @midwhite

二点目は、善の本質を具体的な内容ではなく「形式」として定義したこと。これは、「善は伝統的なルールから生まれる」とする共同体的な考えと対抗的である。伝統的なルールは一定の具体的な「内容」を含むものであり、だからこそ他の共同体と対立してきた。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-19 16:19:48
H.Takano @midwhite

その意味ではルソーの一般意志と共通項を見出すことができる。即ち、ルソーは誰かの利益を調整したものではなく、誰にとっても利益となるもの、誰もが「意志」するものを「一般意志」と呼んだ。カントの善も、「誰もが善と認めるもの」という形式を取っている。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-19 16:24:11
H.Takano @midwhite

三点目は、近代的な「自由意思」を打ち立てたこと。カントの意見は、人は生育の途上で親や社会から受け取ってきた宗教や習俗上のモラルといった善悪のルールを一旦留保し、自分の理性の自由な洞察によって自分自身の善を打ち立てるべきことを暗に含意している。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-19 16:41:05
H.Takano @midwhite

カントによれば自由意志とは善に向かう人間の意志であり、悪や快に向かう意志は自然法則の領域に含まれる欲求であるとした。そのため、もし理性によって客観的な善が判断できなければ、多数の主観的な善が存在するだけになるので、道徳は無意味となる。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-19 16:50:34
H.Takano @midwhite

また客観的な正しさの定義が可能であったとしても、その正しい行為を選択しようとする意志が自由でなければそもそも道徳的行為というものが存在し得ない。以上をカント道徳の根拠として「自由は道徳的法則の存在根拠、道徳的法則は自由の認識根拠」と語られる。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-19 16:59:56
H.Takano @midwhite

そして、この「善」を行為しようとする意志はいかに発生するのか、自由の根拠はどこにあるのか、人間は知り得ない。我々は、道徳的行為と自由があるということを知るのみである。善についてこれ以上のことは誰にも言えない。善の哲学は全て、ここから出発する。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-19 17:07:28
H.Takano @midwhite

しかし、道徳的行為を選ぶことは「自由」であるため、誰しもが道徳的に行為するとは限らない。せっかく客観的な善を設定したのに、人間が常に善を選び、世の中が善くなっていく保証は無い。これが、カントの善の定義から導き出される難問(アポリア)である。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-19 17:12:27
H.Takano @midwhite

よって我々には「善を選ぶことで世界は善くなる」という内容の、目的論的な「理想」を必要である。そこでカントは、最も有徳な人が最も幸福となる「最高善」の世界を描き、それを配慮する全能の「神」が「必要」であるとした。これが「神の要請」の概念である。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-19 17:17:54
H.Takano @midwhite

このようにカントは、アンチノミーによって存在を証明できないとした「神」を、「要請」という方法で復活させた。存在を証明できずとも、我々が神の存在を信じ、「最高善」の世界がいつか実現され得ると考えることの「思想上の必然性」が存在する、と。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-19 17:23:46
H.Takano @midwhite

ヘーゲルの最も重要なキーワードは「自由の相互承認」である。彼によれば、精神の本質は「自由」と呼ばれ、「自由」の本質は無限の自己対象化を通して自己自身をより普遍的なものへと展開してゆく精神(自己意識)の運動である。これが「弁証法」の運動である。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-24 20:08:11
H.Takano @midwhite

ヘーゲルによれば、まず人間精神は「自己価値」の欲望の形をとって生きるため、人間精神の始発点は「自己意識の自由」という場面である。精神はこれを求めて様々な経験を積み、「世界」とは何かについての認識を深め、より普遍的な存在へと高まっていく。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-24 20:16:06
H.Takano @midwhite

人間ははじめ、「自己の価値」を自分の自立性や独立性に求めるが、それは必然的に他者の「承認」を必要とする。人間の「自由」を求める運動には、「他者承認」という契機がある。これがヘーゲルのはじめのテーゼであり、アレクサンドル・コジェーヴが明示した。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-24 20:19:32
H.Takano @midwhite

自由の相互承認が実現するには条件がある。「99人の平和主義者と1人の闘争主義者」という話があって、100人のうち99人が他人の「自由」を承認しても、中に1人でも決意した闘争主義者がいれば、その社会はその1人の絶対支配に帰着することになる。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-24 20:31:30
H.Takano @midwhite

現代思想において「自由」とは、「精神の絶対的選択可能性」「あらゆる拘束からの乗り越え可能性」など様々な定型が提出されたが、ヘーゲルは自由を「多様な価値が沿ないし、多様な人間関係の中で普遍性が競い合われる多様なゲームが存在すること」と言った。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-24 20:50:53
H.Takano @midwhite

ヘーゲルは、そのような自由の下で様々な人が様々な価値観を批評し合い、さらなる普遍性を求め続けるゲームを「事そのもの」という術語を以って表現した。そして、このゲームが許される、自由の相互承認を理念とした点が近代の歴史的意義であると彼は主張した。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-24 20:59:42
H.Takano @midwhite

ヘーゲルによれば、「自由」を実現した近代社会において、人々は自分にとって「何が幸福か」と「何が善か」を各自で決めて、これを追求していいということが非常に重要な柱である。そして、それを相互承認し合うのが近代社会の原則である、と。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-24 21:13:59
H.Takano @midwhite

しかし、そのような社会を実現した近代において新たに立ち現れる問題がある。第一に、各人の幸福の追求は欲望の肥大化と強い者勝ちの欲望競争社会を生みだすこと。第二に、多様な「善」の理念の衝突、イデオロギー対立が起こること。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-24 21:27:47
H.Takano @midwhite

これらの問題に対し、ヘーゲルは提示した答えは「人倫」と「良心」の原理である。欲望の肥大化が生む格差に対して、市民社会はこれを調整して克服する原理を持っていない。しかし近代国家の理念は、自由の相互承認によってそれを是正する合意も含んでいる、と。(竹田青嗣『哲学講義21講』2011)

2011-12-24 21:53:46
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