西南戦争で熊本篭城した警官の日記読むと、薩摩軍の側も基本的には散兵射撃戦なんですよね。ただ小銃だけでは堡塁を抜けないので、抜刀突撃やらざるをえなくなるけど、過信したというより火砲が不足してるのでやむなくという感じに思えます。
2012-03-20 01:05:55@seibihei @tsukasafumio 近代化に着手してから、わずか10数年で総力戦できるようになったというのは、かなり誇って良いことですね。ああいう運用は列強でも長年の試行錯誤を経てノウハウを得たものだし
2012-03-20 01:08:25@tsukasafumio 田原坂でも、白兵戦に頼らざるを得ない地域は一部で、結局歩兵の小銃火力が重要な地形が少なくないですね。もっとも、そういう白兵戦中心の守りやすい地形を作り上げたのは清正公なんでしょうがw
2012-03-20 01:09:47@sweets_street @tsukasafumio うみゅ、全国の壮丁を集めて納豆食えるようにしただけでも十分強力だと思いますお
2012-03-20 01:11:02@sweets_street @seibihei しかも東京や京都から電信で作戦指揮やっとるのですね。よくまあ通信インフラを整備してたと思いますが、ここは薩摩軍に対して圧倒的なアドバンテージ。
2012-03-20 01:12:02@tsukasafumio @sweets_street 戦争始まる前から「旦那はいけない私は手傷」とかやってますねw これは日本の文明開化の速度として無視してはいけないかと
2012-03-20 01:13:30納豆食う壮丁については他意はないが、知り合いの大阪人から「自衛隊に入ってから納豆食うようになった」と聞いてからである。恐らく同じような葛藤が日本中で起きていたのであろう
2012-03-20 01:16:26@seibihei 戊辰戦争の記録見ると、しばしば決め手になってるのが山砲の射撃なんです。皮肉にも大山弥助の薩摩砲兵隊なwかえですが、薩摩軍は山砲が行動しにくい峻険な山岳や水田地帯を利用してますね。
2012-03-20 01:16:35@seibihei @tsukasafumio 戊辰戦争で曲がりなりにも近代兵器で武装した軍隊を近代戦術で運用した経験が生きたのだと思います。西南戦争では両軍ともに近代戦の経験を積んでいたから、相応の運用を考えないといけなかったし
2012-03-20 01:16:38@tsukasafumio @seibihei 整備したインフラを軍事に応用するノウハウってのも、相当の経験をつまないと習得できないものですね。明治政府の軍政能力にはびっくりです
2012-03-20 01:18:29@sweets_street @tsukasafumio そこもあって、八代上陸作戦を一押しします。水陸両用作戦も、そう簡単にできはしないだろうと思いますし
2012-03-20 01:20:59山岳といえば会津攻めの際の三斗小屋戦が熾烈で、両軍が標高二千メートルの尾根を奪い合うという類を見ない山岳戦でした。おまけに会津軍の焦土作戦で旧三斗小屋宿は文字通り地図から消滅しました。
2012-03-20 01:21:12@tsukasafumio あそこは面白いですよ。日本的な「起伏がある上に湿地が多くて接近経路が限られる」地形を実感できます。今の水田も、かつてはほとんど膝以上まで沈む沼地だったようですし
2012-03-20 01:28:45@seibihei 「起伏がある上に湿地が多くて接近経路が限られる」と言えば、長篠合戦の布陣図を見たときは本当にあっとたまげました。
2012-03-20 01:33:27ちなみに戊辰戦争当時の歩兵戦術は密集戦術から散兵戦術への転換期。欧州でも最先端だった戦術をこれを諸藩の洋式歩兵が習得していたというのは画期的です。そして、塹壕構築も習得していました。戦術能力は高度でしたが、兵站や指揮統制などの軍政面は未成熟。軍政を充実させた成果が西南戦争の総力戦
2012-03-20 01:38:56軍事史をやっている兄弟子曰く、西南戦争で銃弾どうしが激突している理由として、散兵戦が未熟なことをあげていましたね。たしかに、西南戦争以後は銃弾の激突を聞きません。 RT @sweets_street ちなみに戊辰戦争当時の歩兵戦術は密集戦術から散兵戦術への転換期。
2012-03-20 01:48:30明治維新から始まる日本の近代化は「天才すげー。維新志士すげー」じゃなくて、地道に試行錯誤を重ねて最先端のノウハウを習得した大勢の役人だの将校だのが凄いのだと思いますよ。それも過労死するような超人的な努力をしたんじゃなくて、やるべきことを出来る範囲で積み重ねた結果
2012-03-20 01:49:11@sweets_street 戊辰戦争期の戦術能力について評価しすぎることには異論があります。戊辰戦争期の各藩の兵制の基本単位は中隊(120名)で、千を越える規模の戦術移動や火力戦はあまりできてないんです。中隊単位の射撃戦の集積という感じ。
2012-03-20 01:49:39