旧幕府と軍事技術に対してのペリー来航の衝撃

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お菓子っ子 @sweets_street

@syakekan 戊辰戦争が散兵戦のデビューで、西南戦争までの間は大規模な運用経験はありませんでしたからね。未熟でも使えたってだけ大したものだと思います。列強以外の軍隊は隊列組んで行軍するのさえままならない練度ですから

2012-03-20 01:52:23
お菓子っ子 @sweets_street

@tsukasafumio 戊辰戦争は大きい戦いでも数百人規模って珍しくないですものね。それ以上の兵力を運用する能力は弱かったかなと思います。組織も整備されてないし

2012-03-20 01:55:34
司史生@減量中 @tsukasafumio

基本単位が中隊同士の交戦の積み重ねなので、一門か二門の山砲射撃で一気に局面が打開できたりするんです。まあ列藩同盟がダメダメすぎるところがありますが。

2012-03-20 01:56:27
司史生@減量中 @tsukasafumio

@sweets_street 当時最大の編成単位である幕府歩兵連隊や伝習大隊の例を見ても、大隊・連隊に相当するレベルの指揮はまだ個々人の能力に依存してて、そのレベルの指揮官の育成は双方共に追いついていなかったように思われます。

2012-03-20 02:01:14
お菓子っ子 @sweets_street

@tsukasafumio そのレベルの指揮になると、軍政も関わってきますからね。しっかりと支えるシステムを構築して、それを運用するノウハウがないと、指揮官と幕僚の資質に依存するところが大きくなりますね

2012-03-20 02:06:04
お菓子っ子 @sweets_street

南北戦争は当時の世界では未曾有の規模の総力戦でした。当時のアメリカはメキシコやネイティブとの戦争で実戦経験を積んでいたものの、まだまだ戦術も軍政も未熟な二流の軍隊。そんな国が両軍合わせて250万の兵力を動員し、4年の月日をかけて、62万人の犠牲を出したのが南北戦争

2012-03-20 02:12:50
司史生@減量中 @tsukasafumio

白河城攻略戦における軍参謀伊治地正治の作戦は、白河城の敵軍2500に対し自軍700を三分割し、敵を中央につり出して左右から城を突くというもの。頭に何か涌いてるんじゃないかと思うが、さらにわけわからんのは西郷頼母がこれにひっかかり千名以上戦死して陥落してること。

2012-03-20 02:16:35
お菓子っ子 @sweets_street

この戦争では、鉄道や汽船を利用した輸送、電信による通信システムの整備、ライフルや機関銃の使用、動員や生産のシステム化、密集戦術から散兵戦術への転換などを、とんでもない犠牲を払ってアメリカは習得したわけですね

2012-03-20 02:18:59
お菓子っ子 @sweets_street

ノウハウというのは必要に迫られた時に汗を流すか血を流さないと習得できないものなので、日本がアメリカが南北戦争の4年と62万の犠牲を払って習得したノウハウのうちの戦術を戊辰戦争の時点で、兵站や指揮統制などのシステムを西南戦争の時点で、未熟ながら習得していたのは、結構凄いことなのです

2012-03-20 02:23:58
司史生@減量中 @tsukasafumio

鎮台制度が確立するまで、明治政府の忠実な剣として砲艦外交や士族反乱鎮圧の第一線に投じられたのが、士族出身の志願者からなる海兵隊であった。わずか十年に満たない歴史であったが、帝国海兵隊--インペリアル・サムライ・マリーン--が明治政府の確立に果たした役割は大きかった。

2012-03-20 02:39:12
Eddie's Kiddin' @pltxblues

南北戦争やその前の独立戦争以来の戦争でアメリカが学んだ兵站、武器等の技術、ノウハウを日本が戊辰戦争や西南戦争で身につけたなんてことじゃなくて、職業軍人ではない人間の命を代償にして、金儲けをするシステムができたってことですよ。 @sweets_street

2012-03-20 07:48:45
MURAJI @murajidash

@sweets_street 歴史なんて何が面白いの?と興味ない人によく言われますが、どんな創作よりも現実の方が面白いですからね

2012-03-20 14:31:05