遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012年4月16日未明遊牧民さんによる関連投稿、翌朝外野の私めが勝手ながらまとめますた。個人的なメモとして。
3
遊牧民@候選 @Historian_nomad

遊牧民によるジューンガル史(含む四オイラト連合時代)講義、はーじまーるよー #遊牧民のパーフェクト(笑)ジューンガル教室

2012-04-15 23:37:56
遊牧民@候選 @Historian_nomad

さてジューンガルとはそもなんぞやというと、『元朝秘史』に森の民として見えるオイラト系民族である。オイラト・モンゴルとも呼ばれるが、厳密に言えば「モンゴル」ではなく、被征服民族であった。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-15 23:40:55
遊牧民@候選 @Historian_nomad

当初はワン・カン及びテムジン(後のチンギス・カン)の連合軍と敵対したジャムカ軍の一翼を担ったが、のち首長クドカ・ベキがモンゴルに投降。チンギス嫡系四子と相互に婚姻を結ぶ外戚駙馬部族として政権中枢に参画する。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-15 23:43:34
遊牧民@候選 @Historian_nomad

しかしその後、モンゴル帝国の大カアン位をめぐりトゥルイ家のクビライとアリク・ブカが争うと、オイラトはアリク・ブカに与した。しかしアリク・ブカが敗北するに及び、それに協力したオイラトの勢力も中枢から疎外され、一時逼塞を余儀なくされる。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-15 23:45:07
遊牧民@候選 @Historian_nomad

このような状況が転換するのは、なんと元朝北帰を待たなければならない。アリク・ブカ家のイェスデルが元の順帝トグズ・テムルを殺害しハーン位を強奪、アリク・ブカ家を支持していたオイラトはここにようやく復権を果たすのである。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-15 23:47:48
遊牧民@候選 @Historian_nomad

しかしイェスデル嫡系の王統も長くは続かず、モンゴル高原は混乱。これに明成祖永楽帝のモンゴル遠征による介入が加わり、モンゴルとオイラトの勢力の興亡は目まぐるしくなる。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-15 23:50:10
遊牧民@候選 @Historian_nomad

この過程においていわゆる「タタールとオイラトの抗争」、すなわち四十モンゴルと四オイラトの対立が幕を開けたとされるが、この「四オイラト連合」の成立については近年疑義が挟まれ、実際はハルハによるオイラト支配に対する抗争の中で生まれたともいう。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-15 23:52:21
遊牧民@候選 @Historian_nomad

それはさておき、この過程においてオイラトの有力者マフムードの子トゴンがモンゴルの有力部族アスト部のアルクタイを滅ぼし、トクトアブハを傀儡のハーンとして擁立。これによってモンゴル高原の実権を掌握した。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-15 23:54:48
遊牧民@候選 @Historian_nomad

この「オイラト帝国」を率いたトゴン・エセンは東西に拡大、東は満洲の女真人を服属させ朝鮮に国書を送り、西は東チャガタイ・カン国を征してウズベクを叩くという発展を見せた。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-15 23:59:27
遊牧民@候選 @Historian_nomad

あ、やっべどうやら盛大にミスったらしいどうしよう。(ついったー上の先輩の反応を見て

2012-04-16 00:00:02
遊牧民@候選 @Historian_nomad

実は『紫禁城の栄光』と昔まとめた自分のレポートデータくらいしか手元にないという状況ではあった。

2012-04-16 00:00:26
遊牧民@候選 @Historian_nomad

ちなみにキルギスの英雄叙事詩『マナス』には「エセン・ハーンの密偵団を制裁」というものがあり(若松寛訳による)、その実態はエセン本人ではなく清朝を指すかと思われるものの、人名についてはエセン時代の影響や記憶が残っていたのではないだろうか。#遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-16 00:02:18
遊牧民@候選 @Historian_nomad

それはさておき、このエセンの時代に起こるのが明代どころか中国歴代王朝を通観しても稀有な「土木の変」である。一体何かというと、皇帝がこともあろうに夷狄の捕虜になってしまったのである。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-16 00:03:22
遊牧民@候選 @Historian_nomad

これは一体どういう経緯で起きたのかというと、明=モンゴル(オイラト)間で結ばれた和議に基づく貿易がこじれたのである。中国王朝の貿易体制としては朝貢が有名であるが、明=モンゴル貿易も例に漏れずこの朝貢貿易を行っていた。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-16 00:06:14
遊牧民@候選 @Historian_nomad

ちなみに朝貢以外に双方の国境地域において貿易を許される互市貿易というのもあるがこれは少なくとも現在問題にはなっていないのでさしあたり置いておく。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-16 00:06:57
遊牧民@候選 @Historian_nomad

さてもちろんエセンもこの朝貢貿易を行っていた。朝貢貿易といえば「夷狄が中国の徳を慕って云々」といわれるが、そんなもんは中国の勝手な理屈であって「夷狄」からすれば大抵の場合どーでもよい。要は貿易の利益さえ手に入れば頭くらいさげるわということ。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-16 00:09:50
遊牧民@候選 @Historian_nomad

ちなみに本気で中国の徳を慕っていたのが朝鮮である。儒教をこれでもかと取り入れた「東方礼儀の国」は伊達ではない。清朝乾隆帝の御代にチベット仏教僧に礼拝せよといわれて「儒教を奉ずる者としてそんなことはできん!」と突っぱねたりもしている。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-16 00:11:46
遊牧民@候選 @Historian_nomad

しかし乾隆帝は熱河離宮における藩部王公慰撫のためにはパンチェンラマ(前述のチベット仏教高僧)を丁重に扱う必要があるため、思わず「朝鮮使節は礼儀を知らぬ」と口走ってしまった。これを聞いた朝鮮使節は「死んでやる!」とまで叫び号泣したという。#遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-16 00:14:39
遊牧民@候選 @Historian_nomad

閑話休題。ちなみに前述の対清朝朝鮮使節については平野聡『清帝国とチベット問題』に記載があり、その出典史料は朴趾源『熱河日記』である。また朝鮮半島における儒教については姜在彦『朝鮮儒教の二千年』が講談社学術文庫に再録されたため参照のこと。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-16 00:17:32
遊牧民@候選 @Historian_nomad

話を戻そう。エセンもまた貿易の利益を求めて朝貢貿易を行っていたが、この朝貢貿易は『皇帝が遠路はるばる徳を慕ってやってきた夷狄に恩を賜う』ものであるため、基本的に中国王朝に持ちこまれるものに対して出すもののほうが圧倒的に多い。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-16 00:19:20
遊牧民@候選 @Historian_nomad

おまけに朝貢にやってきた使節の人数に合わせて賜与品も増えるため、この使節の数を水増しするということも行われた。当初数百人であった使節の数はあっという間に増え、正統十三(1448)年の時点では三千人以上と称した。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-16 00:22:51
遊牧民@候選 @Historian_nomad

明朝からすれば莫大な出費である。たまったもんではない。更に言えば朝貢はあくまで「恩を賜う」ものであるため、使節の滞在費用も全て王朝が受け持つ。いつの時代も客をもてなすのには金がいるのである。それが招かれざる客でも、である。 #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-16 00:24:22
遊牧民@候選 @Historian_nomad

しかし明朝はこの時断固たる態度を示した。使節の人数を厳しく調べ上げ、その人数が水増しされていることを突き止めたのである。その数なんと千七十四人。実に三分の一が水増しされていたのであった。(とはいえ二千人は使節として実際に朝貢していたのだが) #遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-16 00:26:18
遊牧民@候選 @Historian_nomad

これに対し明朝は「実際の人数分」朝貢の恩賜の品を与えた。これはエセンからすれば得られたはずの利益を削られたわけであり、面目まる潰れであった。「属下への適切かつ鷹揚な利益の分配」が求められる遊牧民首長としては決して耐えられるものではなかった。#遊牧民のぱーふぇくとジューンガル教室

2012-04-16 00:30:00