【三国志】諸葛亮の南征
讀史方輿紀要ゆえに演義の影響は免れ得ないが、それでも、明代にそうした伝承が残っていたことは確かであり、多く残っているということは、何かしらの影響が深く残っていたのだろうと思う。頭から信じるべきではないが、切り捨てるべきでもない。
2012-05-09 02:40:36南中の諸葛亮遺構は大体の位置を特定できた。諸葛亮は越スイから永昌に入り、次いで益州に入った。永昌郡東部と益州郡西部に遺構が多く残り、孟獲が降伏したとされている昆明周辺にはあまりない
2012-05-09 21:33:13諸部族を糾合したと言っても、孟獲はそれらを集結させたわけではないだろう。後の張嶷の時がそうだったように、敵は彼らの居住地近くの要害を拠点にしていただろう
2012-05-09 21:42:09山間に籠もる敵を一つ一つ降していく。これが基本的な戦い方になる。必然的に、小部隊を周辺に派遣する形になる。各地の遺構は、諸葛亮がその指揮を執るために築いたものだろう。
2012-05-09 21:47:00昆明に着く頃には、敵の多くが打破され、士気が阻喪していたため、自発的に降伏する敵が増えたのだろう。その場合、諸葛亮が長く留まる必要がなくなるので、遺構が少なくなったのだ
2012-05-09 21:50:00実は、越嶲に孟獲城なるものがある。越嶲でも諸葛亮が孟獲と戦ったとされているのだ。本当なら瀘水を渡る際に孟獲と諸葛亮は戦っているということになる
2012-05-10 01:08:16牂牁郡にも少しだが諸葛亮の遺構がある。これは、先に派遣した馬忠と合流するための東進かもしれない。味県近傍で敵と会盟しているので、恐らく、味県にて孟獲の乱は終わったのだろう。その後、牂牁を平定した馬忠と合流し、諸葛亮は帰還の途に就いたんだろうと思う。
2012-05-10 01:12:02南征における諸葛亮先生の軌跡(推測)。もうそこまで行ったら江州から帰れよ、って場所まで来てる。多分、平夷県と安遠城を経由して帰ったんじゃねえかと思う http://t.co/2hJthmRO
2012-05-10 01:24:35あと、もう一つ推測だが、越嶲の卑水から旄牛までの諸葛亮遺構は、ひょっとすると張嶷のものかもしれない。旄牛ルートは張嶷が回復したので、諸葛亮が通っていない可能性も大いに存在するからだ。その場合、諸葛亮は卑水から西に真っ直ぐ越嶲郡治に出て、そこから南下したのだと思う
2012-05-10 01:26:59