- Leethoo_Tat
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全能の救済者を信じる能力を私は持たない。超越的な機構が輪廻の中で人間に善なる行為に向かわせるシステム設計なっているとは思えない。ただ、弱い善の力が集積されて徐々に大きくなり続けてきたという事実認識を信じている。仏教はその枝の一つだと思う。
2012-06-05 12:56:42無記説のスタイルで生きるか輪廻のリアリティの中で生きるかは個人が判断するべきというのは、積極的な無責任であり断じて中立の立場ではない。意図にかかわらず積極的に輪廻の共同体的選択や自明性を破壊する立場だ。それが分からずに輪廻を捨てるというのは確かに魂の植民地化と言える。
2012-06-05 13:09:25高自殺率時代の輪廻説は善にも悪にも劇薬的といえる。人生を人々に捧げ尽くして死すとも怖くはない的なエートスやを生むかもしれないし、死んでもこの苦しみが続くかもしれないという恐怖や絶望も生む。それを、もう見てきている。善悪一面的なものではないが激しいものだ。
2012-06-05 13:33:36三世応報説がその激しいものだという自覚がないまま、仏法を生きていくことは道義的にも仏法に於いても許されないし、愚かだ。これは仏法の正統性に関わる死活問題で教団の存続を決める人材育成の成功失敗を決めるプリンシプルだというのに。
2012-06-05 13:44:22戒律は因果応報の理によって二世の善果を受け悪果を避けるためにあるという信仰がある。しかし戒律はサンガ共同体の処世術としての機能もある。個人にサンガを守るモチベーションがない場合でも、因果応報が信じられる限り、サンガの処世術レベルは保持されるようデザインされている。ブッダによって。
2012-06-05 13:54:10「ある行為をして、後で後悔し涙して嘆きながら苦い報いを受けるなら、それは善い行為ではない。ある行為をして、後で後悔することなく、喜び心楽しくその報いを受けるならそれは善い行為である。」『ダンマ・パダ』
2012-06-05 14:02:36※ここでいう戒律は比丘・比丘尼戒。菩薩戒ではない。RT @nanbashura 戒律は因果応報の理によって二世の善果を受け悪果を避けるためにあるという信仰がある。しかし戒律はサンガ共同体の処世術としての機能もある。個人にサンガを守るモチベーションがない場合でも、因果応報が信じら…
2012-06-05 14:13:18菩薩戒になると設計意図が遵守されることによって現前の衆生が二世の果報を受けることになるので仏法と一体のサンガが継続するように設計されていない。しかし、輪廻が信じられなくなれば、稟持も弘法も困難になる構造になっている。
2012-06-05 14:22:36仏教にかぎらず宗教の戒律には2つの側面がある。その明示される目的によって行為させる(させない)側面と、ルールを守らせることによって意図も意識もされない結果を生じさせる側面とがある。三世応報の信仰とは仏教におけるこのエコシステムを成立させる前提となる環境・条件として受け継がれてきた
2012-06-05 14:35:55旧いものを廃することは、予期せぬ結果を招く故に、時に不条理に見えても古式に乗っ取るというのは保守主義の原則だが、こと宗教に関しては保守それ自体がしばしば目的であるため、生き残るために一部を手放す選択をしたように見えて、実は生命の方を手放すようなケースがままある。
2012-06-05 14:40:59たとえば、江戸時代の檀家制度の開始が実は、日本仏教が死んでいる理由だったりするのはこのためだ。組織継続のために組織存続の意義を失った。
2012-06-05 14:44:02それでも、輪廻を自明のものとして、その世界観を選択肢として意識させなかったり、選択することに十分な説明がなされず、その意味を十分理解しないまま選ばれるということはあるべきではない。なぜなら認識の可能性を信じるのが私の宗教的信条だから。それが善であるからという理由ではない。
2012-06-05 14:56:44”「仏教徒」である私"と仰る難波さんの立場はお釈迦様とは違うのだろうか…?RT でも、「仏教徒」である私の立場は曹洞宗とは違いますよ http://t.co/iOvWj3Zj
2012-06-05 21:05:24@nanbashura 独り言の積りだったのですがお返事どうも。「お釈迦様と(立場が)違う」と明言されるのならば、難波さんが自らを「仏教徒」と規定する理由、というか動機は何でしょうか?
2012-06-06 20:02:10@DhammaMemo01 ざっくり言いますと「」つきの仏教徒というのは、オーソドクスからみて異端であっても、宗教のカテゴリでは仏教徒になるからです。動機については長くなりますのでしばらくリプなしでツイートしようと思いますのでご興味があればどうぞ。
2012-06-06 20:13:12仏教を信じる人の多くは「何故、この私が仏教を信じるのか?」という問いを深く自分に問うたことがあれば、近代に生まれた自分と仏教の断絶によって大きな謎に巻き込まれてしまうことになる。近代的な思考様式、倫理観などの中で生まれ、折衷された仏教に触れて染まった後に疑問を持つ。
2012-06-06 20:22:02仏教に触れるときには「何故自分が多くの宗教の中から仏教に触れるのか?」という選択肢に思い至ることすらなく、生まれる前からそこにあるものとして触れて染まるもので、そうした心情を持つことや無意識な選択に、責任を自覚しながら選択するということは極めて稀なこと。
2012-06-06 20:27:36宗教に限らず未知の事柄に触れるときにその触れたシステムの全体や触れたあとの自分やシステムの変化を予想することは難しい。インターネットが出てくる前は困難だったが、出てきた後も情報過多によりやはり困難なまま。
2012-06-06 20:46:02たとえば、自分が必ずしも自分の意志だけで所属することになったのでもない宗派や国が世界という巨大なシステムの中でどのような結果を生じていくのかを予想できて責任を負いかつ果たすことの出来る人はいない。
2012-06-06 20:54:33自分を組み込む、あるシステムについて知悉していても、そのシステムの挙動が世界の中でどんな結果をもたらすかまで予想することは出来ない。自分が馴染んできた仏教が千年も前にそれ以前のプリンシプルから逸脱しその後何度も繰り返されていても、それは生まれる前からで今のシステムとそれは違う。
2012-06-06 21:02:50