- miyabi_neko
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天正17年9月敦賀二万余石拝領。11月に小田原征伐の件で家康のもとに遣わされる。天正18年小田原征伐に従軍、7月中旬頃から奥州仕置のため、前田・上杉とともに出羽・庄内の検地に着手。9月下旬頃、部下の不手際から一揆が勃発、上杉の助けを借り鎮圧。
2012-06-10 21:49:33天正20/文禄元年からは朝鮮陣の船奉行・兵站調達に従事。因みに、永禄8年出生説の根拠は、この年1月3日の兼見卿記。吉継の母東殿からの祈祷依頼「子息刑部少輔廿八歳」からの逆算。6月に増田・石田とともに軍奉行として渡海。
2012-06-10 22:01:19文禄2年、碧蹄館の戦いに参陣。5月15日明使を伴って名護屋に帰着、同24日再渡海。6月晋州城攻めに参陣。9月帰国。文禄3年3月伏見築城の任につく。10月より以前に草津へ湯治、おそらくこの頃眼の病が悪化。これより慶長2年まで療養していた模様。
2012-06-10 22:11:54慶長3年6月秀頼中納言叙任の祝いに列席。慶長4年宇喜多・前田の騒動の仲介。終始徳川寄りの姿勢を見せていたが、慶長5年関ヶ原合戦において西軍につき、9月15日討死。
2012-06-10 22:23:07永禄8年生だとすると、刑部少輔叙任の際には21歳、敦賀拝領は25歳。改めて見るとやっぱり若い。結局まだぼんやりとしかわからないんだけど、徳川周辺からつつくと何か出るかな
2012-06-10 22:34:24大谷吉継が癩病だったという根拠が一次史料からは読み取れず、恐らく後世の創作なのだとは思うけど、そこで切り捨てるのではなく、どうしてそうなったのかを考察することに意味があると思うのさ。
2012-06-10 22:45:45終戦後(WW2)にプロミンという抗生剤が輸入されるまで、ハンセン病の治療は大風子油と湯治がメイン。ハンセン病を含む癩病患者が湯治に行った二大温泉地が、草津と湯ノ峰。湯ノ峰は小栗判官伝説で知られている(前の大谷さんのツイートが湯ノ山になってたので訂正)
2012-06-10 22:55:51この刑部人気に便乗して刑部本の改訂版でも出そうかと考えたが、内容の大半が目新しくなくなってしまったので、前回一切触れなかった「大谷刑部の病気」という新章を追加…するのに、どれだけの史料を漁ればいいか分からないので中止。
2012-06-10 23:20:15そういや大谷さんが癩病といわれる根拠の一つに、号が「白頭」でこれが頭巾をかぶっていたからじゃないかってのがあったけど、あれもどうなんだろ。素直に連想するのは白髪だよね……というか、大谷さんの命名センスって
2012-06-10 23:33:36で、資料や書状の少なさに刑部クラスタが嘆くというサイクルなんだよね……もっと書状残しといてくれていいのよ、大谷さん…毛利みたいに!毛利みたいに!
2012-06-10 23:47:14吉継母の件もありますし、それが自然か RT @noimago: 大谷吉継が若くして取り立てられたのは秀吉の縁者だったから説。
2012-06-11 00:09:06吉継の号(とされているもの)は、字がまだわからない。白頭なのか、白次なのか、白以なのか、解読されていない。また、号説、幼名説、吉継とは別人(父親など)説が入り乱れていて、はっきりしない。
2012-06-11 09:23:26あまり号に外見の特徴を取り入れる例を知らないので、例えば号であったとしてもこれを外見の特徴になぞらえるのは疑問。実物を確認していないから断言できないが、この号が使われていた書状は吉継若年の頃なので、何か特徴のある外見であれば記録に残るはず、というのもある。
2012-06-11 09:28:41@u_don_ 号ってやっぱり中国の故事が由来という気がしますね。自分の外見を茶化したような号はつけるなら、年取ってからという気がしますが
2012-06-11 09:31:48@kanekoiroha やはりそうですよね。早いうちから使うならもっと散見されてもおかしくないと思うんですが、どうも大して使われていたような形跡もないので、個人的には別人かなとぼんやり思っています。
2012-06-11 10:06:22@u_don_ 敢えて若くてその号ならば、白い頭=無知な頭、なにも知らない未熟者、的な意味合いかなあとぼんやり思ったりも
2012-06-11 10:09:27@kanekoiroha ああなるほど、そういう考え方もできますねぇ。もし出自が青蓮院坊官でFAなら、僧号的なものかなとも思うんですが、坊官大谷家の通字は「泰」のようなのでどうだろう…
2012-06-11 10:13:11