- miyabi_neko
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@tsukumo_yaso これは北政所西軍加担説になるのですが、吉継の母東殿は北政所の次女なんですね。そこから、北政所が西軍支持と仮定するとそうなるのでは、ということです。
2012-06-09 21:13:11初めて知りました。もし徳川時代の創作なら、秀吉の良エピソードが憚られた結果なんでしょうか。 RT @1059kanri: あの逸話はそもそも、吉継の相手は三成ではなく秀吉でした。それが後世、秀吉の役回りを三成に取り替えて作られたものです。
2012-06-09 21:13:22@pochio85 もちろん実際に友情があったかなかったかを確定するものではありません。ただそういう史料は存在しない、ということですw
2012-06-09 21:14:32@wakakusujp 徳川時代、秀吉は大変人気があり、そのエピソードも憚られてはいませんでした。どうも三成の茶回しの話は、幕末か明治頃にできた感じがw
2012-06-09 21:16:40@1059kanri 高台院の側近だった東殿ですね……しかし、調べると例の癩病を煩って目が見えなくなっていた、というのも江戸時代中期以降にしか出てきていない話だそうで、なんだかどんどん人物像が曖昧模糊としてきています……。
2012-06-09 21:19:20@1059kanri @nonomaru116 さきほどから、お2人のツイートを拝読しておりますと、「ほんまに、いはったん?」という不安になってまいります。まるでツチノコですねえ
2012-06-09 21:25:01大谷吉継の茶の回し飲みの逸話、実は本来、それを飲んだのは豊臣秀吉であり、主君の度量を表すお話でした。それが江戸末期から明治くらいに相手が石田三成に変わります。分析的に言えば、時代的に君臣の縦関係から友情という横関係が重視されるようになったため、ということでしょうか。
2012-06-09 21:25:18@nozarashi_pon @nonomaru116 実は関が原に参加した大名級の人物で、戦死したのは彼だけなんですね。そういうところも含めてほんとうに不思議な人です。
2012-06-09 21:27:28@1059kanri 壁|v´) 西軍加担という常識では考えにくい行動をとったため、利害順逆を越えた関係が両者にあったんじゃないかという解釈がなされ、例のお茶話が取り込まれたんでしょうね。
2012-06-09 21:36:18@1059kanri お茶会の話は後世の作り話というのが定説ですね。吉継さんについてはわからないことが多い…ただ吉継と秀吉は密接だってことは秀吉が敦賀城主に吉継を任命したこともひとつ。伏見城築城の際の材木を東北から運んだ際、吉継は敦賀湊で重要な任務にいたらしいですね。
2012-06-09 21:36:56@Cwenbur いやいやいやw三成も言われているような小才子的人物ではないんですよ。むしろ実に武断的・豪傑的な人物だったりしますw
2012-06-09 21:38:17@pochio85 ですね。非常に信頼された側近であったことは間違い無いですね。そういう秀吉が深く信頼した、吉継や豊臣秀長といった人が家康と非常に親しかったという部分に、秀吉の家康に対する考えみたいなものも想像させます。
2012-06-09 21:43:19@1059kanri 西軍、やる気ない島津毛利、内応両川、あとはだらしなくて、唯一まともに戦ったのが大谷吉継(ただし成り行きの可能性が強い)ですからねぇ……。
2012-06-09 21:43:56豊臣政権内で秀吉に強く信頼されていたと解る人たち、豊臣秀長、浅野長政、大谷吉継らは、揃って徳川家康と非常に親しい関係でした。こういう部分からも秀吉自身の家康に対する考え方が見えてくると思います。
2012-06-09 21:48:34