@hidetomitanaka さんと @izumino さんの対話が非常に興味深かったので、勝手ながら現時点までの分をTogetterにまとめさせていただきました。 http://togetter.com/li/3252
2010-01-15 03:26:40@izumino 表現論において選好の問題が欠けていて、標本学にしかなっていない、というのは要するに「(我々は)こんな風に読んでいる」ということを語っているに過ぎないということ、そして「我々」を前提としている時点で「ぼくら語り」と同断であるというのは端的に事実でしょう。
2010-01-15 03:34:34実のところ「ぼくら」という読者共同体の成立が、表現論を可能にしている、ということについては瓜生吉則氏の論文で指摘されていますし、具体的に批判の対象にされた夏目さんも了解しているハズです。
2010-01-15 03:37:04@izumino とはいえ「我々はこう読む」という論じ方をしているという点では、いずみのさんも(そして自分も)、「表現論」同様に「ぼくら語り」に間接的かもしれないけれど依存していることになるのだろうと思います。
2010-01-15 03:41:28楽屋裏の話をすると、『昴』でゾーンの話を引用したのって、「普通の読者(ぼくら)の感性からまったく離れた、超感覚の人間だっているはずだよね。そんな人が漫画描いたり読んだりしたら?」というネタを実は仕込んでいたりするのだった
2010-01-15 03:42:17@izumino そういう意味で「ぼくら語り」批評はものすごくマンガ論の歴史においては重要で、『テヅカ・イズ・デッド』における批判によって埋葬されるにはまだまだ早いというか、むしろ功罪も含めてちゃんと検討する必要はあるなと思っています。
2010-01-15 03:43:45みやもさんが「らき☆すた らっきー☆ちゃんねる全24話を同時に見てみる」を張って「人間の認識力を越えてるよね」という話をした時に「そこですばるの出番ですね」とコメントしたりとか http://www.nicovideo.jp/watch/sm1623018
2010-01-15 03:49:01自分の見解では表現論は、主観的な読みの経験を、一般的に了解可能な形で提示するための洗練されたツールという位置付けです。そして、それはそれで、マンガを語る言葉を豊かにするのものです。
2010-01-15 03:50:40しかし、@hidetomitanakaさんも指摘されるようにそのような「我々の読み」がいかにして可能なのかについては問われるべきなのだと思います。この解明に関する経済学の有効性については不勉強なのでわかりかねますけど。
2010-01-15 03:53:00@izumino 「超感覚があったら」という仮定が可能なのも、やはり「我々の感覚」が前提ということになりますよね。で、そこで「感覚」や「認識能力」の話になるのは、いずみのさんが「選好」を促しているのが認知的働きだと基本的に考えているからなのだと。
2010-01-15 03:59:48重かったりでかかったりすると持ち方は変わる、目の良さによって遠ざけ方も変わる、まぁ相互にパラメータがフィードバックしていく関係ではあって、そういうニュアンスは下巻で臭わせているようで……ちゃんと書いてはいないか
2010-01-15 04:04:32@izumino なるほど。テキストと読者の物理的関係と認知、ですね。その辺りでいずみのさんの議論から「選好」の問題がまったく排除されているとはぼくも思わないですね。というか、今後展開されるハズという期待。実証性を高めるにはいろいろハードルありそうですけど。
2010-01-15 04:18:06一方で自分が表現論の影響から出発しつつも歴史研究志向になっているのは、現在の「我々の読み」が歴史的な蓄積に支えられている部分が少なからずあると思っているからで、そこを掘り下げていく際に「選好の体系」についての問題意識は重要かも、と感じた次第。
2010-01-15 04:18:40いずみのさんのアプローチは共時的で、自分の考えている方向性は通時的なものだと思うので、それぞれに相補的になれればいいな、と思ってます。そして経済学的な方法論の導入は単純に興味深い。自分は明らかにマンガ論どっぷりなので。
2010-01-15 04:22:34