![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
現象学のねちっこい変態さはお好き?
-
sunamajiri
- 3115
- 0
- 1
- 2
![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
それは同感。つまりその言述に先立つヘーゲル的な錯覚なのかなと。スピノザだとびしっとそこが決まって、ツッコミようがないんですけどねー。@aoinatsunosora 因果論こそ二元論の極みですから。笑
2012-06-23 01:59:30![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
いまググったら中山元さんの解説があったんで、数分目を通しましたが、これはいかが(もうお風呂はいりますが)?http://t.co/SQ22nZ6x @aoinatsunosora メルロ=ポンティは読みごたえありますよ。笑
2012-06-23 01:57:44![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
まるで詩ですね。でもフッサール・ハイデガーがいたのなら、存在論的認識論とか、存在論的エポケーとか、極限にいくでしょう。世界が原因で認識があるとか、西欧哲学を論じてそうですよ。@aoinatsunosora たぶん、彼の著作だけ読んでもさっぱり分からないという。
2012-06-23 01:54:38![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
メルロ=ポンティは読んでませんので、そのうち読むようになったら、いろいろご教示ください。でも、言葉があるので、その言葉に先行する、世界での生活しか哲学できないはずです。我があるから懐疑がないのではなく、世界があるから懐疑する我が在るみたいな。@aoinatsunosora
2012-06-23 01:26:40![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
そうですね、それをたぶんフッサールをツールに、存在論に戻すしかないでしょうね。@aoinatsunosora フッサールが見ていたのは、たぶん「認識に先行して在る世界」ではありません。「目の前に生まれ出で来る世界」かな。
2012-06-23 01:25:44![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@sunamajiri フッサールが見ていたのは、たぶん「認識に先行して在る世界」ではありません。「目の前に生まれ出で来る世界」かな。
2012-06-23 01:24:14![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
レヴィ=ストロースと実定的な家族法ってそんなに親和性いいものなのですねー、家族を利害関係で捉えるからかしら?@slitsandfrills 行政法はあまり私好みではないんです。家族法が一番興味があります。レヴィ・ストロースの人類学や家族社会学、家族療法などにずっと関心がありました
2012-06-23 01:19:56![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
コギトというのは述部でしょう。世界はその言葉より先行した(意識の)原因なのでは? フッサールは意識を志向性としたけれど、志向性に先行して世界があるという存在論に戻ろうとしてるんでは?@aoinatsunosora コギト論は断面としては面白いですが、それは現象学の見栄えの良い一部
2012-06-23 01:18:16![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
さて、メルロ=ポンティhttps://t.co/kIQ2BF2g は読んでないので推理しようもないので、お風呂にはいらなければ・・・・(^-^)/
2012-06-23 01:13:16![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
@sunamajiri コギト論は断面としては面白いですが、それは現象学の見栄えの良い一部でしかありません。まさにいまそこに現れる、とは何かへの問い。
2012-06-23 01:13:16![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
それがどう応用されるかは単に知りませんが、さっきのhttps://t.co/Xt1VvryE からの類推です。世界が意識の原因なのでは? 後期フッサールは他我を得られてないように見えますし。フッサールはあんまり関係なさそうですが。@aoinatsunosora
2012-06-23 01:10:55![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
いや、デカルトという個人がどうのではなく、コギト命題に先立つ世界懐疑こそ生活意識だ、みたいな? デカルトはいわば神思う我が世界と対峙してるなら、他我=世界つまり我々こそ自我の原因としかできないのかなと。@aoinatsunosora なぜデカルト以降。笑
2012-06-23 01:04:54![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
なぜデカルト以降。笑 RT @sunamajiri: 思う我ゆえに世界(デカルト)、志向性→世界という独我(フッサール)、これらに先行して、世界・他我が原因ゆえに懐疑する意識→自己原因の実在化→受肉した我々→生(メルロ=ポンティ)みたいな? 青 まずわれわれとは何か
2012-06-23 01:00:25![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
思う我ゆえに世界(デカルト)、志向性→世界という独我(フッサール)、これらに先行して、世界・他我が原因ゆえに懐疑する意識→自己原因の実在化→受肉した我々→生(メルロ=ポンティ)みたいな? @aoinatsunosora まずわれわれとは何か、からですね。笑
2012-06-23 00:57:50![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
フッサールぐらいだと様態がトポロジーに展開されるみたいな感じですが、メルロ=ポンティーは観念を受肉させちゃうんでしょうかねー。それで観察者を免れるみたいな。どうもジャーゴンについていけないけど。@aoinatsunosora このところ現象学的考察を続けています。
2012-06-22 21:55:39![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
ああ、原稿ですか?(^-^)/ @aoinatsunosora 字が小さい。 http://t.co/qRDGfqap
2012-06-22 21:04:07![](https://pbs.twimg.com/media/Av_gYaWCQAI-xpc.jpg:medium)
![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
フッサール省察第十七節の超訳。我が思う何かと何かを結びつける綜合こそ意識に固有とする哲学的方法(現象学)では、意識は何を知覚するかという心理主義を脱して、それと平行した想起などの直観も、我が思う何か(志向対象)として記述する綜合=意識の述定となる。
2012-06-17 19:31:55![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
フッサール省察第十六節の超訳。何かを思っているという意識の志向性を考えずに、感覚与件から心理学をすると、形態(ゲシュタルト)を先行する全体とする先入観に陥るが、先行するのはあくまでもデカルト的な思っている我であり、それを前提に心的内容も記述しなければならない。
2012-06-17 18:54:02![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
イデーンをデカルト的と反省する省察第十五節長くても超訳。自然的態度では世界存在が前提され、思っていることを問えないが、世界存在をエポケーすれば、先入観を免れて、思っていることを対象に思うこと=記述できる。それは自我分裂ではなく、同じ対象をめぐる自然的ではない超越論的態度だ。
2012-06-16 20:17:34![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
感想。スピノザによれば、デカルトは神を対象にするために我を置いている。つまり神を思う故に我あり。このように、デカルトは神しか思っていないから、思う対象を問わずに、思っている我を述定してしまった。フッサールは、我が思っているということより、何を思っているのかを、志向性と呼ぶ。
2012-06-16 19:15:40