- Cristoforou
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緑の多い慶應三田キャンパス、さっき、蛇がいるから気をつけて下さい!と警備員さんに注意された。危うくアオダイショウを踏むところだった
2012-06-23 13:02:4014世紀のイングランド国王エドワード2世の王妃であったイザベラ(1295-1358)が同時代の年代記にどうえがかれていたのか。イングランドに侵攻して夫であるエドワードをはいいにおいやったイメージが強い。フランスの雌狼。
2012-06-23 14:06:291980年代からイザベラ像の見直しがはじまる。イザベラが同時代にどう捉えられていたかをみようとする。この報告では夫の治世末期においてイザベラがどうえがかれたかを複数の年代記を検討して明らかにする。
2012-06-23 14:12:19使用する3種類の年代記の解説。2つはラテン語(Vita Edwardi Secundi, Annales Paulini)。1つはフランス語(The Anonimalle Chronicle)。
2012-06-23 14:17:133つの年代記が共通して記述していること。イザベラの所領が没収されたとき、1325年に渡仏したとき。これらの記述からは、共通の出来事を記述しながら、年代記ごとにそのイザベラが描写に特徴がある。イザベラを主体的にえがくもの、イザベラの行動だけを記述するもの、イザベラを被害者とするもの
2012-06-23 14:25:03この他の記述からも、王権に近い立場から記述した年代記、聖職者のたちばからの年代記、貴顕向けに書かれたものという各年代記の性質がイザベラの描写に反映されていることが分かる。
2012-06-23 14:32:48どの記述が実際のイザベラの様子を率直に記述しているのか。後世のイザベラ像へと受け継がれたものがなんなのかについて仮説を立てることができるだろう。
2012-06-23 14:34:26ポイントはイザベラ像を見直すときに、同時代のイザベラ像を見ようというだけではなく、特定の時代の特定の性質を持ったイザベラ像を具体的に検討する必要があるということ。
2012-06-23 14:41:44各年代記はイザベラを主題したものではない。したがってまずは各年代記の叙述上の戦略をあきらかにして、そこからイザベラ像をみるというステップを踏まねばならないのではないかという指摘をもって、最初の発表終わり。
2012-06-23 14:44:26ジョヴァンニ・ベッリーニが繰り返し描いた聖母子像。ビザンチンイコンを意識して母子を描いていた。ではクレタイコンとの影響関係はいかなるものであったか。クレアイコンの流入により、いかにヴェネツィアの母子像は変容をとげるのか。
2012-06-23 14:53:281410年代よりクレタはギリシア正教会の芸術の中心地となっっていた。1400年代後半には100名以上のイコン画家が登録している。ここから母子像が西方カトリック世界に輸出。ヴェネツィア本土にも。
2012-06-23 14:55:44クレタではギリシア風の母子像とラテン風の母子像を注文に応じてつくりわけていた。市場の要求に応じて新たな様式をつくりだしていく。東方と西方の融合もその過程で生じる。
2012-06-23 14:59:47母子像の大量発注の実態の説明。1499年7月4日に700点の注文がある。このうちラテン語様式の発注がおおい。フランドルに輸出されていたことが推測される。またヴェネツィアから各地に帰る人々が買ってもって帰ったこともあるだろう。ではこの拡散過程でいかにクレタイコンは変容したのか。
2012-06-23 15:05:47ラテン様式の採用、顔のクローズアップ、ピエタのようなカトリック的主題への採用。拡散にともない需要目的が多様化していた。残された絵画(ジョヴァンニ・マンスエーティ)から、当時の母子像を再現する。寝室や玄関ホールにかけられており、人々の日常的な礼拝の対象となっていたのではないか。
2012-06-23 15:11:48富裕層においては主の財力を顕示するという役割もになっていた。背景を描くことで、見る楽しみを増やそうとする工夫がなされたものがある。ヴェネツィアの住環境と結びついた変容が観察できる。需要の増大にともない使用する目的の多様化が起こり、それが変容を促す都いう構造。
2012-06-23 15:17:48質疑応答。衣笠さんがアントネッロ・メッシーナを専攻であるということなので、メッシーナの絵画の調子が変化することに、クレタイコンの影響があったかどうかという質問。あったのではないかという答え。
2012-06-23 15:20:46