こーど(code)氏による旧陸軍の「社会民主主義」

「国民の生活が第一」というスローガンは、旧陸軍によって実現し・・・そうに見えた。 そんなお話をまとめてみました。 (いつもながら、何で歴史が「趣味」のサブジャンルなのか、私としてはtogetterに再考を促したいところです)
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こーど・あんぐりまーら @skskmkh

戦前の政治システムでは、労働者の権利等(これを社会主義的要求と言う)を求める動きは、既成政党・貴族院・枢密院によって潰されていた。しかし、開戦までの国民の総意は、「あくまで政党政治を通じて社会主義改革を」、またはそれが可能となる民意が反映されたシステムを、というものであった。

2012-07-12 10:21:47
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

この対立を解消する存在として人気を高めたのが、「自作農創設工場法制定農村金融機関の改善」という社会民主主義的改革を自らの主張に盛り込んだ、軍部であった。軍部は、擬似的な改革推進者であった。

2012-07-12 10:23:59
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

1930年(昭和5年)の日本の農業人口は46.8%。既に1928年には普通選挙権に基づく選挙が行われていたが、小作法など農民の求める法は議会を通過しない。しかも1929年の世界恐慌をきっかけとした恐慌が日本を直撃する。

2012-07-12 10:29:14
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

不況下では、農村に金を貸してくれる銀行は無かった。もし害虫などの被害を受けたら(そして、当時の作物は現代よりも病気に弱いのも当然であった)、高利貸しなどに頼るしかなかった。

2012-07-12 10:31:19
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

陸軍統制派が1934年10月に「国防の本義と其強化の提唱」において、「農山漁村の疲弊の救済は最も重要な政策」と断じたのは、このような状況であった。農村は、軍隊に入る兵士の最も重要な供給源であった。都市の学校に通う男子や、企業・工業で働く者は、徴集猶予の恩恵を受けた。

2012-07-12 10:34:31
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

この頃陸軍省軍務局長であったのが永田鉄山で、国防を「国家生成発展の基本的活力」として、いちばん大事なのは国民生活だと断じた。「国民生活の安定を図るを要し、就中、勤労民の生活保障、農山漁村の疲弊の救済は最も重要」というのである。

2012-07-12 10:40:07
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

具体的な労働者・農民救済案とは、義務教育費の国庫負担肥料販売の国農産物価格の維持・耕作権などの借地権保、また労働組合法の制定労働争議調停機関の設置など、一見美しく、正しいスローガンであった。勿論画餅であったが、政治・社会の改革者として軍部が期待されるのである。

2012-07-12 10:42:56
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

国民生活というキーワードに触発されて、と言うとなんだかときめくようである。

2012-07-12 10:46:48
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

何故陸軍が、ここまで国民生活を重視したのか。それは一つには、第一次大戦におけるドイツの敗因分析に基づくものであった。列強の経済封鎖に国民が耐えかねたこと。思想戦、革命思想の台頭により、国民が内部的に自壊したこと。そこから、戦争の勝敗は「国民の組織」にあると見いだしたのである。

2012-07-12 10:49:30
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

就業人口の半数を占め、兵士の供給源である農民を組織する事を、戦争準備として必要としていた。こう目的を書いてしまうと、「国民を組織するためには政党の議会政治ではダメだ」と一歩進んでしまう理由がわかる。また、そう考えを進めざるをえない必然的背景は、ソ連五カ年計画成功であった。

2012-07-12 10:52:57
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

加藤陽子氏が『満州事変から日中戦争へ』で引く日ソの兵力格差では、人員はもちろんのこと、工業力格差が重視される。戦闘機数を比較すると、1932年では1.5倍だった彼我の機数差が、1934年には3倍に達している。重化学工業化に成功したソ連は、極東方面に関する軍備増強にも成功した。

2012-07-12 10:56:50
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

この工業力格差は年々拡大していくもので、安全保障上必要としたはずの満州国に、軍事的側面から、さらに安全な後背地を持たないと安心できなくなった。日本の植民地獲得欲求は、安全保障上の利益に基づくものなのだが、ここで中国に対し華北分離工作を行うのも、同じ発想であった。

2012-07-12 11:02:42
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

米国海軍を増強する前にソ連の重化学工業化が進展する前に。「もし満州国がソ連に攻められても、ソ連軍を撃退できる状況を作りたい」という発想が、また国際連盟に介入力は無く、一年や二年で中国を降伏させるだけの打撃を与える事は可能だ、という見通しが、日中戦争に至る思考であった。

2012-07-12 11:10:19
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

だいぶ長くなったので、胡適や汪兆銘について、すなわち実際に日中戦争が長期化する過程や、太平洋戦争について、1930年代後半から40年以降に国民の意識がどう変わるのか、ここでは置こう。

2012-07-12 11:17:35
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

さて、農家の平均年所得が1929年に1236円で、1931年には650円になるという恐るべき環境(農林省調査)で、「国民の生活すなわち経済問題を基調とし、我が国民の生きんとするゆえんの大方針を立て、これを遂行する」目的を建前にした軍部に対し、民政党・政友会は対抗できなかった。

2012-07-12 11:25:11
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

ただし軍・警察は、今のやくざ屋さんと同じく「その」と呼ばれ、怖い存在でもあった。実際三月事件・十月事件などのクーデターや、五・一五事件などのテロも軍によるものであった。暴力で内閣を威圧し、甘言で国民(の多数を占める農民)にアピールしていたのである。

2012-07-12 11:32:02
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

戦争反対の勢力は、治安維持法で根こそぎ検挙された。無産政党が出兵反対と主張する際、論拠となるのは出征・在営家族の保障であったが、実際に強い圧力をかけてそのような保障を勝ち取っていたのは、戦争を推進する陸軍省そのものであった。

2012-07-12 11:40:34
こーど・あんぐりまーら @skskmkh

帝国主義に反対するということと、実際に戦争の犠牲者である兵士家族の待遇を改善する(すなわち、戦争を援助する)ということ、日本ではこの主張は切り離しづらかった。結局、国民が「苦しい選択」を続けた末に、軍部に一定の支持がもたらされたと見るべきであろう。

2012-07-12 11:44:27