戦国期の枡と、数値化による把握・知行

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MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

昨夜、うっかり戦国大名における枡の問題をツイートすると予告したら何件か反応が。困りました(汗)が、やってみましょう。

2012-08-14 20:50:49
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

まず前提として押さえておいていただきたいのは、中世は荘園や村ごとに使用されている枡や俵の大きさが異なっていた。これは本当に多様。固有名詞のついている枡も沢山あり、地名由来のものも多い。ようは、その村で使われていた枡である、ということ。容積も9合枡、10合枡、11合枡…とばらばら。

2012-08-14 20:54:00
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

したがって荘園の代官などは、様々な大きさの枡をじゃらじゃらと腰に沢山ぶらさげて、年貢徴収にあたっていた。

2012-08-14 20:55:17
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

さて、戦国大名今川氏では米方・代方制という知行制度がとられていた。ようは、米年貢と銭年貢が混在していたわけです。通説では、これをもって、今川氏の遅れた制度、今川氏滅亡の一因とされてきた。

2012-08-14 20:57:09
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

しかしこれはおかしい。米方と代方(銭)を通算した知行高が算出されているからだ。どうしてこれが可能になったのか。また、今川氏が取っていた米方・代方の併用は武田・徳川氏にも引き継がれている。これで今川氏の滅亡を説明するのは無理がある。

2012-08-14 20:58:10
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

実は戦国大名の場合、在地での年貢納入に使われていた枡や俵は、ばらばらのままで放置されていた。これを統一しようという発想は、まったくない。しかし知行宛行・安堵状では、収納基準がばらばらであるはずの違う村の年貢高が並べられ、最終的には足し算されている。どうしてこれが可能になったか。

2012-08-14 21:01:04
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

それは、戦国大名は個々の村で用いられている枡や俵の容積をきちんと把握し、それを統一的な枡・俵で計算しなおした上で、知行宛行・安堵状を発給しているからなのだ。一部の宛行・安堵状には、その旨がきちんと記されている。

2012-08-14 21:03:11
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

まず武田領甲斐では、「甲州枡」(国枡・判枡と呼ばれた)が用いられ、1俵=2斗入りという原則があった。そしてこれを貫高に換算する際には、5俵=1石=1貫200文、つまり1俵=250文という計算で換算が行われた。これは大名が上から定めた制度である。

2012-08-14 21:06:21
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

ところが、信濃では事情が変わってくる。同じ甲州枡が使われており、1俵=2斗入りの原則も守られてはいるものの、5俵=1石=1貫文、つまり1俵=200文という基準値であった。つまり国ごとに換算値が異なるのである。

2012-08-14 21:07:56
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

では駿河・遠江ではどうか。武田領駿河・遠江では、「下方枡」という枡が採用された。俵も「下方俵」という3斗入りの俵が用いられ、3俵1斗=1石=1貫文、つまり1俵=300文という換算値が適用された。今川時代の事情ははっきりしないが、それに影響を受けた可能性は高い。

2012-08-14 21:10:49
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

では徳川氏はどうか。本国三河では、「細川市枡」という枡と1俵=2斗5升入りの俵を採用し、4俵=1石=2貫文、つまり1俵=500文という換算基準を採用した。

2012-08-14 21:12:52
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

占領地である遠江では、武田氏同様に下方枡と下方俵(3斗入り)を採用したが、換算値が異なる。徳川領遠江では、3俵1斗=1石=1貫200文、つまり1俵=375文で計算がなされた。

2012-08-14 21:14:23
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

このように、戦国大名は、国ごとに違った公定の枡・俵を採用し、在地で慣習的に用いられている枡・俵からはじき出された数字を、一度計算しなおして、知行宛行に用いていたのである。つまり、戦国大名が把握している数値と、在地の人間が認識している数値(実態)は異なるのだ。

2012-08-14 21:16:37
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

つまり、同じ貫高にみえても、国が異なれば、その数字の意味する値はまったく変わってくることになる。ちなみに国をまたいで知行地を与えられた場合、給人の所属国(本国)の換算基準に直された値で、知行貫高は表示されることになる。

2012-08-14 21:18:30
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

さて、武田氏が甲斐・信濃で用いた甲州枡と、駿河・遠江で用いた下方枡は容積比が大きい。甲州枡:下方枡=1:0.56という比率になる。このため、甲斐・信濃の知行地を駿河・遠江の知行地に直す場合は、6割源という換算を行っていた。例えば甲斐で70貫文の知行地は、駿河では約40貫文となる。

2012-08-14 21:22:03
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

…とこのように書くとややこしいのだが、国単位で統一的な換算が行えれば、特段の問題は生じなかったのである。

2012-08-14 21:24:24
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

ここで注意したいのは、実際に使用されている枡・俵の統一を図ることと、大名が計算に用いる尺度を統一する、ということはまったく異なる、ということなのである。そしてここに大きな誤解があるのだが、統一政権も、実際に使用されている枡・俵の統一を成し遂げていない。

2012-08-14 21:26:03
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

江戸幕府が寛文期に京枡による量制統一を放棄したことは、藤井譲治氏の研究があり(『幕藩領主の権力構造』)、近世甲斐では、石高は京枡基準だが、年貢納入・俵高計算は甲州枡基準という変則が許容された。

2012-08-14 21:28:05
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

そしてこのように考えていくと、戦国大名の貫高制と、近世石高制の間には、銭建てと米建て以上の違いがあったのか、疑問に思えてくるのである。豊臣政権以降は、国ごとにばらばらだった公的換算基準を、できるだけ列島全体で統一しようと図ったに過ぎない。ようするに、同じ方向性なのだ。

2012-08-14 21:31:35
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

以上、かなり強引なまとめになりましたが、元ネタは平山優「戦国期東海地方における貫高制の形成過程(上)(下)―今川・武田・徳川氏を事例として―」(『武田氏研究』37・38号、2007-2008年)。こちらをご参照ください。早く著書にまとめて貰いたい、重要な論考です。

2012-08-14 21:33:09
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

この件で注意を要するのは、武田領の場合、甲斐・信濃の貫高と駿河・遠江の貫高の意味に大きな差異がある点。これが他にも影響を及ぼすのか、及ぼさないのかは未検討だが、統一貫高表記にすることに意味があるわけで、他への影響はないだろう、というのが現時点での私見。実証はしていない。

2012-08-14 21:42:09