心のなんとかかんとか
スキナーが「実在を承認」したのは「刺激制御に従う言語行動としての心の存在」であろうと思います。トールマンやハルが研究対象としての「実在を承認」したのは行動の「内的過程」であって「心」ではありません。RT @123_euglena: 徹底的行動主義は心の実在性を承認。
2012-08-25 23:14:57それは「技術的に観測・測定できない」のではなく「原理的に観測・測定できない」ということです。「札内川そのもの」が観測も測定もできないのと同じです。 RT @123_euglena: では、単に観測、測定できる形では存在していない、と?
2012-08-25 23:17:42札内川の話で後藤先生はもうほとんど「心そのものは実在しない」「神経の発火が心そのものではない」ということがわかっているのではないかと思います。わかってしまえばつまらない当たり前の話です。
2012-08-25 23:19:06まさに「エネルギー」とか「力」はそうで、「仕事量」のような「機能」からしか定義されません。それで「操作的定義」というのが必要になります。 RT @SF_yomi: 素粒子、エネルギーに実態が有るのや否や? ちょっとお子様だと思う。実在だと思うけど。
2012-08-25 23:25:16操作的定義によって科学になっている、というのがブリッジマン(この人はノーベル物理学賞受賞者)の「操作主義」の考えです。 RT @SF_yomi: え? 物理学は科学ではないと?
2012-08-25 23:29:37「心そのもの」は札内川と同様に、それを支える内的過程、それへの環境からの入力と出力、その出力の果たす機能などの全体に与えられた「名前」であるということです。 RT @123_euglena: 実在するけれども原理的に観測・測定できる形では存在しない、ということですか?
2012-08-25 23:32:22だから心理学者は「心」を操作的定義して「観察可能な行動」に置き換え、それをデータにして心を形而下に移動することで「心を科学することができる」と考えたわけです。 RT @SF_yomi: おぉ国語の先生みたいだ。心は形而上うんちゃらに対して、の話ね。文字数制限で後半切れたのだけど。
2012-08-25 23:35:05そういう意味で「心の対応物」と言えるものはたくさんあるけれども、どれひとつとして(そのひとつだけを取り上げて)「これが心だ」と言えるものはないということです。「神経の発火」もそうです。 RT @123_euglena: だったら、心そのものの対応物は実在するでしょう?
2012-08-25 23:37:13@ynabe39 OK! 要するに、渡邊さんの表現が常法と著しく乖離してるだけでは?心は実在するけれども、それがどこにどういう形で存在しているか、私は知らない、ということなのではないかな?
2012-08-25 23:39:43@ynabe39 OK! 要するに、渡邊さんの表現が常法と著しく乖離してるだけでは?心は実在するけれども、それがどこにどういう形で存在しているか、私は知らない、ということなのではないかな?
2012-08-25 23:39:43文献も示しているのですから「これは渡邊だけの考えだ」と考えようとする理由がわかりません。昨日もいくつかRTしたように、心理学を専門的に勉強した人の多くは私の書いていることに特に違和感は持ちませんし。 RT @123_euglena: OK! 渡邊さんの表現が常法と著しく乖離して
2012-08-25 23:44:10文献も示しているのですから「これは渡邊だけの考えだ」と考えようとする理由がわかりません。昨日もいくつかRTしたように、心理学を専門的に勉強した人の多くは私の書いていることに特に違和感は持ちませんし。 RT @123_euglena: OK! 渡邊さんの表現が常法と著しく乖離して
2012-08-25 23:44:10@ynabe39 でも、https://t.co/19rS14aHを読む限りは、心の対応物が実在していることを承認しているようにしか、読めません。
2012-08-25 23:47:44@ynabe39 でも、https://t.co/19rS14aHを読む限りは、心の対応物が実在していることを承認しているようにしか、読めません。
2012-08-25 23:47:44心は「どこにある」とはいえないものです。これも「技術的にまだ言えない」のではなくて「どこまで行っても原理的に言えない」ということです。
2012-08-25 23:49:08心は「どこにある」とはいえないものです。これも「技術的にまだ言えない」のではなくて「どこまで行っても原理的に言えない」ということです。
2012-08-25 23:49:08ライルのあげた例になぞらえると、畜大に来て「畜大はどこだ」と聞いても事務棟や一号館や二号館はあっても「畜大そのもの」はどこにもない、畜大というのは特定の建物や部屋のことではなく「そこにある様々なものや人々の機能全体につけた名前」だからだということです。
2012-08-25 23:51:51ライルのあげた例になぞらえると、畜大に来て「畜大はどこだ」と聞いても事務棟や一号館や二号館はあっても「畜大そのもの」はどこにもない、畜大というのは特定の建物や部屋のことではなく「そこにある様々なものや人々の機能全体につけた名前」だからだということです。
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