【シューニャリアーナ】語りと疎外と差異と同一と本質と、そして<誰かである事>【はるかかなたへ】
- L_O_Nihilum
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ネタバレ:けよりなで、シーンに入ってからそれを視ながら考えたことです。
はい、フィーナ様ルート、完遂いたしました。
(完遂したからこそ悩むんですよ)
それはそうと、直で思ったことを書きだそうと思います。
哲学の学術的な要素がいっぱい入ってます。
工夫が足りない、とは言われるかもな しかし、その工夫はどれも可能な工夫だらけじゃないか、まったく。この状態で批評がよく行えたもんだなぁ…。批評は、「より高度な趣味の洗練」のために必要なはず。趣味の停滞はその目的じゃないはず。
2012-09-17 22:56:57工夫:Hシーンって、工夫が要りますよね、という話です。
簡単に言えば。
○こういうノベルゲームに於いては、他のゲームジャンルに比べて比較的「静的」で、「単純」な素材と、それに付加する効果と音声、効果音の組み合わせによって場面を表現していく。
だいたい以下の関係である。
背景-立ち絵(イラスト)-文章ウィンドウ・文章
+音楽+台詞、効果音
例えばACTやSTG、RPGではドットで打たねばならず、動作に意味あいがあるので上記の要素(絵、音楽、音)がより一体になって動いているが、そうした在り方からはノベルゲームは異なった手法を取っているというわけ。
で、その手法だとどういうことになるかってと。
表現方法の単純化、システム、バイト数、データ総量の問題と作品性との乖離性。…セックスを描く、って言う事はこれほども難しい事なんだな。特に、ゲームという電子柵定媒体を相手にした場合。紙の場合だって難しいのに。そして、商業というベースがあるときに、それはさらなる制約を受ける。
2012-09-17 22:59:27そう。
「制約」が発生するんですよ。
いやもちろん他のジャンルでもサイズ的制約は発生しますよ?
それ以前の問題。表現の方法が単純化し絵画の組み合わせで非-動的な映像所作によってゲームを仕立てていくということになる。
ということは?例えば「場面A」を描くために、ある「シーンA」というCG絵一枚を使うとする。
「シーンA」のCGは変化にあわせて差分が用意されているけれど、差分で表現しきれない動きを(文章を読んでも解るほどに)キャラクターが動いていたりする。(特にセックスはその典型的かつとても分かりやすい題材)
キャラは動いているというのに、差分の絵は静止したまま(変化しても差分があるのみ)。
漫画であってもそんなことはありませんよね。秘部を奏でられ、弾かれて、身体は思わずブリッジ状に仰け反る。
でも、そう描かれているのに、静止した映像は差分で変化があるだけという状況。
いちいち変化する姿勢を描いていたら、それだけでコストや作業量が激増してしまう。
(⇒というわけで動きに重点したILLUSIONやかぐやのようなエロゲーが出来ていくわけだが、こんどはそこがゲームの主題になってしまうことで、物語の希薄化を強く要求してしまう。)
…そうした、静的な素材、という作り方から生まれる「制約」が、作品の魅力をさげてしまう、という点がとても気になっていたわけです。
では、さて、そういう「制約」があっては、どうしても素材の組み合わせとしか解されないほど、魅力が無いのか?
と問い返したときに、
これは明らかに『違う』と言えること。これも重要である。
絵は少なく、展開の細かさを描写する方法が足りない。ではそうした作品には強度が無いと言うのか?そんなことはない。
それでも保たれているものがあるからこそ、こうした作品の形式が保たれ、尚且つ続くわけですし、そう考えると、その魅力は何か?という問いかけが可能になる。
また、もっと別の観点からこの『違う』を問う事もできる。
例えば、フィーナたちがホームステイで生活していくなか、麻衣とミアが料理の友達で仲良く買い物に行く、という会話がされたとする。
ゲーム画面中ではリビングの背景に、フィーナと数人がいるだけだったけれど、こうしたキャラクターたちがその画面の場所から動いたときに、「あ、この辺も絵一枚あったっていいなぁ」という場所がある。
そこのCGが加えられてもよかったんじゃないだろうか。
製作の作業こそ増えるが、魅力はその分増やせる、とするならば。物語の中心となるキャラクターの外の動きも、絵に描くことは可能なのではないか。
このシーンにもこんなCGあってよかったな、ここにもあっていいな…というものが在った筈である。
さらにさらに問い返そう。
そう「思う」ことがプレイヤーに可能であるなら、どうしてそこにわざわざ絵がいるのか(これは創作者側の視点とも)。
それと、そのように思えるという事は、
どうして、そうしたシーンが(←ファンによって)描かれないのか。キャラを描く、のではなく、場面を描く、というものがこうしたコンテンツの二次創作に、もうちょっと溢れてもいいのではないか。
…そう、要するに、『違う』こと(差異)が、作品の魅力の増長に関わるという事である。それはノベルゲームではかなり重要課題なのだ。
その「さらなる制約」を受けた範囲しか、批評が評ずることが出来てないんだったら、これは、なんという羞恥だろう。無知の知、どころじゃない。無恥だったのな。
2012-09-17 23:00:12一つ知った。(作品にも因るだろうけど)Hシーンのときの感情は、主人公とプレイヤーは激しく乖離した意識を持ちうる。特に、それが”提供者的な受け狙い”によってえがかれたテクストであれば、在るほど。(逆を言うと、感覚と近しいところが多すぎても逆に危ないわけですが)
2012-09-17 23:03:00それまであんなに普通に接していた男女が、シーンになってからいきなりけだもののように覚醒して、タイミングを見計らって乱暴な言葉を掛けたりすることがある。
「ここでそれは言わないなあ」という言葉を主人公キャラが言う事がある。そうするとプレイヤーによっては乖離が起る、というような意味あい。
言語は皮膚だ、とはロラン・バルト(哲学者?文学家?文芸批評家?)の言葉。
彼の思考のなかでは、言葉は触り心地のあるもののように扱われ、展開する。誰かに向けて、とくに恋する人がそれを受け取った時は、それはその人の肌を撫でるような、何かしら感じさせるものとしてやってきてしまう。
意味とか内容の問題ではなく。その言葉が「とげとげ」しかったり、「あたたか」かったりする。
そのような差が、プレイヤーにショックを与えたり、感動を与えたりしている。
エロゲーというのはそのもっともな例として言えるわけだ。
こうしたお話のタイプで、”感情移入するのは男の方ではなくて女の子のキャラの方”…だから、意外なことかもしれないけれど、こうした作品は(男性向けであるにもかかわらず)女性が楽しめている場合が少なからずあると言われている。(データこそ不在だが)意外な事実。
2012-09-17 23:04:46とくに「けよりな」はそうだったのではないだろうか?
フィーナ姫はPixivで探してみると女性絵師のコピック絵がかなり散見される。
また、ドルフィードリームとはいえ、ドール化もされ、未だドルパで活躍している。
さらには、何かしら「銀の長髪・緑色の目」の女性型ドールは、DN(ユーザーが人形につける名前、ドルフィーネーム)がフィーナであることが多いという妙な話がある。
生産者のターゲットとは別のところで、魅力が発見されているキャラクターは沢山いるという事だ。
(なおかつ、その魅力の発達や育成がうまくいってるキャラとそうでないキャラが激しく散在していること、これも指摘しておくべき事だろう)
差異、同調、そして乖離と合一…思考、ユーティリティの差異化と、合一する感情(すなわち感情移入)、それと、映像と想像界の乖離と、(例えば”達哉”と呼ぶシーンでプレイヤーが偶然”たつや”だった場合などに起きるような)呼びかけの、呼応と同調…。
2012-09-17 23:07:45感情移入がある=強度がある=表現がちゃんとしている
という事ですよね、単純に。
なら、たとえエロゲーのこうした作り方でも、他の製作形態となにが違うと言うのか?
違うとすれば、それはこうした表現で新たに生まれた『独特さ』まさにその「他には無さ」ではないか?
データベース消費を代表とする様々な消費論はその独特さの追求も忘れている。手法の分析としては十二分だ。だが手法の残余を視、そうした趣味領域洗練を提案することこそが批評の仕事のはず。
田中ユタカのエロマンガは、それ以外のエロマンガとどう違うのか?
それと同じような語りが求められるはず、なのだが。
遊ばないと分からない、遊びもしないでその感覚を言うことなどできない、現象学的な、エポケー、還元なしに、なにも語り出すことはできない、これは、少なくともこうした作品について確かなことだな。うむ。
2012-09-17 23:10:18実際にエロゲーのHシーンを見た、ゲームプレイから見たのは実質、ホントにこの「けよりな」が初です。はい。
「女としてとても嬉しい事」…。えーっと。確か、MAGIシステムってさ、「女としての」「母としての」「研究者としての」それぞれのリツコの母の在り方がプログラムに封入されてるんだったな。
2012-09-17 23:13:38どうでもええ話やけど、日本には5つのでかい映画企業があったんだけど、それどんどんほとんどつぶれてって、だからいま東映と東宝だけになってる、って現状があるのね 日活、も残ってるんだけど、どう残ってる、って、コレエロ映画やってるからこそ残ってるのね(笑)。
2012-09-17 23:23:35日活ロマンポルノ、ってそれですよね。
エロの登場で息継ぎ、というのは何もこうしたラノベやNOVゲーだけではなくて、それ以前に普通の映画産業、文学創作のなかでもいろいろと同例が在る筈。江戸だって、例えばホクサイのヤツが「鉄棒ぬらぬら」というペンネで何やってたかって、エロ絵師やってたわけであるし。
2012-09-17 23:24:45こっから先、わけわかんなくなります。言ってる事の意味が中二病通り越してペダンチックです。解説していきます。
気が向いたらw。
性のポリティクスを乗り越えて、そのキャラクターへと至る諸々の妄想力、その発展形としての想像力と、創作意欲。創作意欲というよりも、ルセミオティックな場。場を作り出す「誰か」性としての、<フィーナ>の描写。
2012-09-18 01:02:59妄想力<想像力。
頭とか心とか言われるところに何かしら生み出していく能力。
それを、カタチにしようとする力が創作力。
・・・よくよく創作意欲と言われるけど、半ば衝動や狂気がかかわっていく創作(傷つけて作るという字を書いてるでしょ?)という活動を、たんに、「意欲」と言ってる限りはまだまだ、って言われるのは良くある話。(創作意欲とは作家のスランプのいいわけだとも言われたりしますよね)
それは「場」なのですよ。クリエイティビティと言われるモノはそういう作為性というか、人がスイッチオンすれば必ず動くなものではなくて、なんというか「気合」なんですよ。
そのなかに現れる、創作のなかに現れるキャラクターとしての、<フィーナ>さん。
そして、その<フィーナ>語りから発動される断片的な哲学―――即ち彼女を通して語られる、<フィーナ-達哉>の、そこから発動される哲学的文化、ジンメル的な、小さな連関のなかに見出される永遠の定義と、思考の展開、およびそのアレンジメント(変奏)。
2012-09-18 01:04:16