塩谷賢 「一次的な調整の作法について、限定を置かないのが哲学」
「考える対象」とは何かということから「調整」という話をしました。考える対象というときに、それは、考え続ける対象、考え直す対象でもあるわけで、それは[ある程度の持続性を必要とするので]言語化、名詞化されると。
2012-10-14 11:11:03痛みも対象化されることがあります。ふつう痛みは自分が痛いだけですよね。でも、医者に「治してください」というときには、「ここが痛いんです、治してください」と[言語化して]説明する。医者を殴りつけて、「先生も痛いでしょう、なんとかしてください」とはしないですよね。
2012-10-14 11:13:06つまり、私たちは〈何かに対処をするための対象というものをしぼりだす〉わけですよ。考えるということもそういう意味で、対象をしぼりだすんですよ。だから最初から対象があって、それについて考えるのは比較的楽なのね。でも、何を考えるかから始めると途端に難しくなる。
2012-10-14 11:15:23だから、計算の練習問題というのは楽なんですよ。差異の体系のなかで当てはめていけばきちっと答えが出るからね。でも、何もないところから、対象を創造するのは難しい。どのように対象を組めばいいかはわからないから。―それが、考えるということの原型なんですよ。
2012-10-14 11:17:10だから、考えるということは常に「How(どのように)」ということと関わるわけです。そして、「How(どのように)」ということとの関わり方もいろいろあるわけです。
2012-10-14 11:18:45さっき、ジャンルという話をしました。「ジャンルというのは扱う対象によって分かれる」と一言で言いました。そこについてもう少し言うと、対象というのは対処・調整するためにしぼりだした何かなわけだから、ジャンルがあるということは、調整の手法がある、ということなんですよ。
2012-10-14 11:21:24いろいろな調整の手法がある。総合の仕方、そこからつながる行為がどのように組織化されるか、…それに応じて、ジャンルというのが出てくるわけです。
2012-10-14 11:24:43私たちと世界との出会いというか相互作用[から対象は生まれる]。しかも対象があるということは、1回出会って終わりというわけではなくて、それなりの持続性がある。もしかしたら1回しか出会わなかったかもしれないけれど、また出会えるかもしれないと思いつつ、それについて考えることができる。
2012-10-14 11:27:23調整というのは、目の前にあるものでなくてもできるんですよ。例えば、罠の調整。狐を獲るために、ここにこういう罠を仕掛ける。そのとき、狐はそこにいないわけです。もしかしたら狐という生き物はその島に存在しないかもしれない。でも、狐がいるかのように罠を調整し、仕掛けることはできる。
2012-10-14 11:30:12そういう意味で、対象は実在しなくても調整の核となりうるわけです。くり返しますが、対象というのは、私たちと世界との出合い方、対処の仕方に“応じて”出てくる。
2012-10-14 11:32:50世界に対処するうえで、人間は一人でなんでもできるわけではないから、他の人と共同作業をしなければならない。そのとき、私の思うとおりに人は動かないわけですよ。人と人の間には隔たりがある。脳と脳を電極でつないで一つの脳にするわけにもいかない。
2012-10-14 11:36:21この隔たりを処理して、世界に対処する仕方を他の人と共有するための枠組みが要る。自分の内部で世界に対処するのと同じ仕方では、ふつう共有できないわけです。…もしかしたらそれをやろうとするのが、いわゆる「甘えの構造」(cf.土居健郎)や「以心伝心」なのかもしれませんが。
2012-10-14 11:40:09つまり、お母さんは、私の恋人は、私が思っていることをわかっているはずなんだから言わなくてもわかる…、という、間主観的な調整に対する、ある種の信頼というか幻想を持つ。
2012-10-14 11:43:59その一方で、ジャンルにおいては、調整の結果として、論文とかが、コミュニケーションの結果として表れるわけですよ。そこでは“お作法”ということが出てくる。
2012-10-14 11:45:03ひるがえって、じゃあ、哲学はどうでしょうと。いままで対象を掴まえる、個物を掴まえるということは[それぞれのジャンルにおける]議論のベーシックとなっていたわけですが、そういうレベルの話に対して、[哲学は]限定を置かないということですよ。
2012-10-14 11:48:54いままでの話のなかで、僕は知覚と考えるということをごっちゃごちゃにつないでしまっていますよね。知覚することと考えることは違う。それにもかかわらず、対象、志向性、調整(生物体のなかの調整と、言語のなかの調整)を重ねて論じている。
2012-10-14 11:53:57積極的にいえば、このように一次的なレベルで「How(どのように)」に対して限定を置かないということが、哲学することになります。“お作法”があるわけですよ。それぞれのジャンルのなかには。“お作法”は歴史的に積み重なっていくし、共同的にやるために必要ともされる。
2012-10-14 11:56:47つまり、その話はこの話に接続してくださいとか、いま何々が流行っているからこれをしましょうとか、そういう「How」に対する限定がある。その限定を、なるべくしないようにするのが、哲学する、ということなんですよ。
2012-10-14 12:01:01…と言いながら、ここは自縄自縛になるんですが、「How」に対する限定なしで考え続けるということは、考え続けることにですでに調整が必要になっているので、調整のしようがなくなったら、何もできなくなるわけです。
2012-10-14 12:07:31哲学するということは「How」に対する外的な限定をできるだけなくそうとする。しかし、限定が一切なかった、調整なんてできるわけがない。さあ困った。というのが、哲学の抱える難しいところになります。
2012-10-14 12:08:49ここまでの話をまとめると、考えるためには「考える対象」が必要であり、その対象は、世界と私の絡み合いのなかで、総合・調整ということをして表れると。そして、[学問]ジャンルというのは、どのように対象を見出して、どのように対象を整理して、どのように対象を共有するかという仕方であったと。
2012-10-14 12:13:20例えば、自然科学というジャンルにおける調整には、実験があげられますです。実験は1回したら終わりじゃない。必ず何度も繰り返して、誤差の範囲を確かめて、初めて実験になります。ダイレクトに実験結果というのは与えられたりはしない。
2012-10-14 12:20:06この前、京都大の出口君から聞いたんだけど、光速って、測定方法によって有意にピークがずれるんですよね。図説に載ってる29万9千キロメートル毎秒って、それらの測定結果の平均値なんだそうです。調整して、しかもそれぞれトラブルを起こさないような調整をして、初めて光速という対象が出てくる。
2012-10-14 12:23:53物理学でさえ、そうなんだよね。しかも調整においても、「調整のエラー」というのは生じうるわけで、それに対しても対処しなければならない。だから、学習というのは、単純に一つのうまくいくやり方を習うのではなくて、失敗したらどうなるか、どうなったらやばいかまで含めて、調整を学ぶ必要がある。
2012-10-14 12:26:35