- AdeKaz8564
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・勢力均衡 殲滅戦がなくなった事による産物として、勢力均衡が発生した。 勢力均衡というのは、ある国が勢力を高めたら別の国々が同盟を組み、その国を殲滅せずに弱体化、また他の国が勢力を高めるとまた別の国々が同盟を組み、その国を殲滅せずに弱体化…
2012-12-03 18:50:12といったように勢力を高めた国が変わる毎に同盟が臨機応変に組み換わり、それによって覇権国家が生まれない状況である。 この状況は、ヨーロッパの土地がもう開拓し尽くしてあるからこそ生まれたと言えるだろう。
2012-12-03 18:50:38・軍事革命 勢力均衡によって臨機応変に戦わなければ地続きの密集した主権国家によって一気に国が占領されてしまうという緊張感から、軍事革命が発生する。 これは、火器や大量の兵士を戦時中以外でも保持し続けるように変わるという革命で、これは勢力均衡による緊張感から生まれた物である。
2012-12-03 18:51:15・絶対君主と社団国家の発生 勢力均衡によって各国は議会などの話し合いのような時間のかかる判断より、素早い臨機応変な判断を必要としたために絶対君主が発生する。 ※専制君主ではなく、絶対君主が生まれた。
2012-12-03 18:52:20当時の絶対君主の例として、フランスのルイ14世が挙げられる。 絶対君主では、国の一番上に王が立ち、その下に領主、聖職者、都市などの『社団』があり、さらにその下に国民があるという状況になっていた。 この状況の国家を『社団国家』といい、その国の官僚は貴族出身の者が世襲制で行っていた。
2012-12-03 18:52:40イングランド女王のエリザベスⅠ世が他の国の王族と結婚する事で国を乗っ取られる事を恐れ、結婚をせずに死亡します。 そして国を治める人がいなくなったイングランドは、スコットランド王のジェームズⅥ世をイングランド王として迎えました。
2012-12-03 23:13:54これによって、イングランドとスコットランドは同君連合(国のリーダーが同じ国)となりました。 しかし、この二つの国は経済力が弱くなっており、その状況を脱却しようとしたジェームズは、経済大国のオランダの真似をして海上貿易を始めます。
2012-12-03 23:14:12名誉革命 ~王と議会~ ジェームズⅥ世の息子のチャールズ1世に王が変わったのだが、チャールズは絶対君主となり自分の気まぐれで政治を行った。 その気まぐれな政治に怒ったイングランド議会は1642年に内乱を起こした。
2012-12-03 23:15:30その戦争の際、前から王が治めていたいたスコットランドは王側につき、イングランドは議会側についた。 イングランドはこの戦争でスコットランドと、ついでにアイルランドを征服し、イギリス(グレートブリテン)に。
2012-12-03 23:17:491649年、議会側の勝利でその内乱は終わり、チャールズは処刑された。 それによって短い間であるがグレートブリテンは、共和政となった。 しかし、結局共和政もすぐ終わりイギリスにまた王が生まれた。
2012-12-03 23:19:40しかし、その王のチャールズⅡ世はチャールズⅠ世の処刑後にフランスに亡命していた頃の影響で、宗教はカトリック(イギリスはプロテスタント)で、かつかなりフランスびいきな人であった。 フランスびいきな政治をした結果 、議会の怒りを買い殺される。
2012-12-03 23:19:54名誉革命 ~オランダの策略~ ジェームズと議会の対立が発生した際、イングランド議会はイギリス王の血筋である、オランダ総督のオラニ公ウィレムに招待状を送る。
2012-12-03 23:21:18当時のオランダはイギリスとフランスに同時侵略されていたために滅亡寸前の状態で、そのため議会とジェームズⅡ世の対立という危険な状況であるのを知りながらも、イギリスに対して軍を送り侵攻する。
2012-12-03 23:22:04訂正 RT @Y0PON: しかし、一方のイギリス軍であるが、誰も指揮をしているジェームズを信頼していなかったため、イギリス軍が一気に寝返り、イギリス側の勢力はジェームズのみとなった。 そして、戦争を起こさずにジェームズⅡ世を追い払う事に成功したのである。
2012-12-03 23:36:59イギリス人は、革命で人を一人も殺さなかったことに誇りに思い、 これらの出来事を名誉革命と呼んだ。 その後、ウィレムはイギリス王ウィリアムⅢ世として即位した。
2012-12-03 23:22:49名誉革命 ~名誉革命の副作用~ 名誉革命によって、実質(ウィレムはオランダ王ではなく総督のため)オランダとイギリスは同君連合となったが、それによって今まで島国の小島であったために戦争に巻き込まれなかったが、今後はオランダのために大陸での戦争に参加しなければいけない状況となった。
2012-12-03 23:23:24・議会主権 王であるウィレムは大陸での戦争に必要な金をイギリス税で入手しようとしたが、それをイングランド議会は拒みイギリス内の税を掌握した。 これにより金不足となったオランダは戦争ができなくなった。 この事件から王よりも議会の方が力を持つようになり『議会主権』の世の中となった。
2012-12-03 23:24:06・イギリスの財政改革 ウィレムの死後、同君連合が崩れてオランダの為に戦争をする必要のなくなったイギリスであったが、イングランド議会により、ヨーロッパ内の勢力均衡を維持する為には勢力を付けつつあるフランスを打倒する必要があったので戦争の続行を決断する。
2012-12-03 23:24:53一つ目は、消費税の導入。 まず、税制に不公平がないように全国一律の税率を作り、中央集権化。 今までは土地の量によって税を変えるなどとしていたが、これによって人が物を買うたびに徴税できるため、経済が発展した。
2012-12-03 23:26:29これはオランダを手本としており、名誉革命の頃のオランダとの交流から、経済のノウハウを学んだとされる。 またイギリスがオランダを手本とした結果、18世紀にヨーロッパの経済の中心地がアムステルダムからロンドンに移動し、多くの物と金が移動した。
2012-12-03 23:27:05