市野川・宇城編『社会的なもののために』についての噂
Le sociologue Robert Castel est mort http://t.co/EGn1aNCewJ @lemondefrさんから
2013-03-13 20:59:10ロベール・カステルは、一九三三年の八月にブルターニュ地方、今日ではフランス最大の軍港、ブレストの一部となっている、かつてサン=ピエール=キルビニョンと呼ばれていた町で土木技師の父のもとに生まれた。
2013-03-13 21:13:50幼少期に両親を相次いで亡くした彼は、親戚に引き取られ、父がそうであったように技師を目指す。あるいは父母が健在であれば彼はそのまま技術者となったのかもしれない。 何かを忘れるように読書に没頭した少年を共和国は見いだし、手をさしのべた。
2013-03-13 21:15:01その間の経緯については、「ブーヘンヴァルトで」と題された、短いエッセイで少し語られている。「それが1947年のことだったのか、それとも48年のことだったのか、もうその正確な日付は定かではなくなってしまった。」
2013-03-13 21:18:39「私はブレストの工芸学校の生徒で、工員になるために、職業適正証書CAP取得のための準備をしていた。そこにはひとりの数学教師がおり、わたしたちはビュッシェンヴァルド(ブーヘンヴァルド)と呼んでいた。」
2013-03-13 21:20:17「彼はブーヘンヴァルド収容所の生き残りであり、おそらくはそこに送られたレジスタンスに参加した共産主義者だったのだが、まだ13歳か14歳だった私たちには、それがなにを意味しており、そしてなぜ彼がそういうあだ名で呼ばれていたかということはきちんとは分かっていなかった。」
2013-03-13 21:20:49「私は数学はさっぱりだったのだが、にもかかわらず、ブッシェンヴァルトは頻繁に私を黒板まで呼んで練習問題を解かせたために、そのたびに私はほかの生徒の前で恥ずかしい思いをすることになった。」
2013-03-13 21:21:55この教師はサディストか、さもなくばよほど私を嫌っているのだろうと思い込んでいた。週に二回あった数学の時間の前になるとわたしは怯え、黒板の前に呼ばれるころになると恐怖におののいていた。
2013-03-13 21:22:59だがその年の授業が終わったあと、わたしはブッシェンヴァルトに部屋までくるように言われた。わたしは、いつもにもまして恐怖におののいた。ほとんど60年も前のことであるから、正確な言葉遣いは忘れてしまったが、そこで彼が私に言ったのはおおよそ次のようなことだった。
2013-03-13 21:23:44「カステル。きみは別のことができる。ここにいるべきじゃない。ここにいては身動きがとれなくなるからな。人生では自由を愛するべきだし、挑戦するべきだ。高校に進学しなさい。そしてもしチャンスと勇気があれば、きみは賢明になって、何かをやり遂げることができるようになると僕は思う。」
2013-03-13 21:24:22私はブッシェンヴァルトの言葉に従い、高校に行くという挑戦を選択したが、彼と二度と会うことはなく、本当の名前がなんだったかも知らないままだった。ただ何年か後に、彼が亡くなったという噂を聞いただけだ。リセに進んだ後、わたしは哲学を、さらにその後には社会学を学んだ。」
2013-03-13 21:24:56奨学生となった彼は社会上昇の階梯に手を掛け、ついには哲学の教授資格(アグレガシオン)を取得することになる。哲学者エリック・ヴェイユのもとで助手を務めたリール大学では、彼は当時助教授だったブルデューと出会うだろう。
2013-03-13 21:27:07それは、おそらくは彼が社会学に研究の方向を見定めたひとつの出会いであったはずだ。 六七年、リールを離れ、ソルボンヌに向かう。ブルデューの師であったレイモン・アロンを指導教官として社会学を研究するためである。
2013-03-13 21:27:21すでに高等研究院(エコール・プラティック )に移っていたブルデューそして彼の共同研究者であったパスロンの示唆によって、教育の社会学的分析に手をつけようとしたカステルであったが、その「決まり切った」やりかたに嫌気がさし、自分自身のテーマ、つまり精神医学の社会学の研究を始める。
2013-03-13 21:28:55当時それがフランスにおいて未開拓の領域であり、また彼の妻が精神科医であったために、日常的な接触があったこともまたその理由であったようだ。もちろんこのときすでに彼はフーコーの『狂気の歴史』を読んではいる。だが、みずからに与えた影響という点で重要だったのは、むしろアメリカの社会学者、
2013-03-13 21:29:37アーヴィング・ゴフマンの『アサイラム』であったと、あるインタヴューで述べている。その「全制的施設」という概念、つまり精神病患者の人身の法的、行政的、そして精神的・物理的拘束のメカニズムの分析が、カステルに決定的な影響を与えたのである。
2013-03-13 21:30:04事実、カステルは『アサイラム』のフランス語版(六八年)に解説を寄せ、また八七年にはみずからも中心となってスリジー・ラ・サルでコロックを開催している。
2013-03-13 21:30:16この時期のカステルの仕事は、フランスにおける精神医学の制度化を描いた『精神医学の支配』および『精神医学の秩序』、さらには精神病にたいする統治思想の変化を、病人にたいする個別的対応から、人口的(つまり集団的)統御への変遷として跡づけた『リスクの管理』などの著作として出版されている。
2013-03-13 21:30:43つまり精神医学(そして臨床心理を中心とした心理学)の社会学的分析をフーコー的な手法で行う研究者、これがわれわれの目に映っていたカステルであった。
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