【シューニャリアーナ批判論】システムとしてのわたしたち?
- L_O_Nihilum
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z@mandel59 サバルタンていうのは一般に「従属的社会集団」とか訳されますが要は批評とか政治とかの対象になってて自分から言説出来てない(出来ても伝えることが出来てない)人たちの事です 例えにくいけど…誤解覚悟で言えば要するに一人一人のネットユーザー等。
2013-04-07 12:16:50僕のなかではもはや『サバルタン』=語られる側、研究される側の人(=理論のなかで対象化され歯車化されてる人)という意味でかなりコンパクトになってますけど…^^;
http://t.co/toZaJNegQ5 『サバルタンは語ることが出来るか』(スピヴァク著) 論じること、が上から目線になりざるを得ないこと、その難しさとリスクについて
2013-04-07 12:17:29http://t.co/toZaJNegQ5 このページでの「Representationは必要ない」のRepresentationをアーキテクチャだとかデータベースだとかにそのまま置き換えればよし
2013-04-07 12:19:07批評家もまた「ここで自分たちが言ってることはすでに当の消費者が知っていること」として時々”必要ない””自分が言うよりも分かってる”という事を言いだす。ヨイショしているふりして実は上から目線という状況になってる
2013-04-07 12:19:55どうしても語るってことはその語ることの意味づけを骨格にしないといかんから、当の論者自身が嫌がっててもコンスタティブ、説得的になってしまい上から目線になる。これは間違いなくある。自分にもある。ゴルギアスの罠と呼んでおくか
2013-04-07 12:23:47それをいかに逃げて行くかという話 説得的な言い分ではなく、疎外も丁寧に扱ったところで物事を言おうとすること
2013-04-07 12:24:24当人の声を当人の声として、そこに、またその中の一人として自分の声として。うーぷ。何言いたいか忘れた。
2013-04-07 12:25:04言語活動は内部からでないとありえないと思う(Fromはるちゃん)、けれど言説は外化しざるをえない。内側から自ら言葉が決まっていき選ばれていくのに、それが外化してしまうとはどういう状況?ていう時西田先生使えると思うのだがどーなんだろ。
2013-04-07 12:26:31「システム」は基本「しくみ」の意。人為的であれ人のあつまりによる自然なものであれ「しくみ」。ただ、それが1つの「しくみ」として論じられるとき、しくみ論、システム論。
2013-04-07 12:32:21なんか動的に機能しているモノがあって、コレの「しくみ」を誰かが「こうだ」と言う。…すると、「こういうものだ」としてその「しくみ」の考え方、捉え方が別の論者にわたる。その結果「こういうしくみで動くXだ」と言う風に対象のXをとらえるようになる
2013-04-07 12:34:35ただ、常にそう言われてる側の大枠Xは、そうとは限らない部分をたくさん持ってるのだが、当然ながらその部分は目が向かわず疎外される
2013-04-07 12:35:14疎外された部分への語りは出てこない しかもこの「疎外」のパターンは結構決まっていて、「外的」であると つまり、個別な、内部内部のモノは彼らの「しくみ」論では説明できないことになってて(ていうか実際出来ない)、だから無視されている
2013-04-07 12:36:12私の言いたいことは、この「無視されてる」部分にこそ彼らの動向、運動の本質があると思ってる…彼らというか「彼・彼・彼」だな それがあるわけだが、そこを言う事は、しくみ論じゃなければ可能なんだろ?だったらやれよ、内部に迫れよって話
2013-04-07 12:37:12歯車がぐるぐる回ってある機械を動かしてます このとき「システム」は成り立っております
2013-04-07 12:37:32で、人がコレみて、その仕組みが理解できたとする。するとその『しくみ』論を、人は言えるわけです そしてそれを、他人に伝えられます 理解した人たちは皆、その『しくみ』を(ほぼ)同じように語れるし、使い方が判れば使えます
2013-04-07 12:38:21問題なのは、この「歯車」に当たる部分が、論じようとしてる人と同じ人間だってことです(人間って言葉が作られたとか、人間てそもそも何だみたいな話は今はさておき)
2013-04-07 12:39:05つまり人間が歯車のように「しくみ」を持って動いているという見方が出来る→そうすると歯車的(しくみ的)にその動いている人間が捉えられてしまう
2013-04-07 12:39:40