清正殿の朝鮮土産は、五輪書が榊原家に伝来、現存。あと朝鮮灯籠がかつての中屋敷跡地である上野の岩崎弥太郎邸庭園に置かれたままになってる。 #榊メモ
2013-06-14 17:30:14文禄3年2月4日、伏見城の普請のことで江戸にいる皆が榊原邸に集まって会議。一万貫につき二百人を出すということに決まり、16日に江戸を出て伏見に。 って何故この記事は御系図にこれだけ書いてあるんだろう #榊メモ
2013-06-14 17:49:08太閤殿下時代の伏見城下の絵図あげてるのを見かけたけど、これ違う……(主に井伊掃部と榊原遠江と本多美濃が。それ息子) #榊メモ http://t.co/zfeWsMURz5
2013-06-28 20:49:36確か以前見たちゃんとした絵図では、場所は同じだけど井伊兵部ってかいてあったし、榊原式部は位置が多少違う気が……いや記憶だからあいまいだけど
2013-06-28 21:02:34慶長三年六月、太閤殿下病危急につき井伊榊原本多平岩と石川康通(家成の子)、藤ノ森に私邸を構え東国よりかわるがわる上京す。と書かれているけれど太閤殿下の療養は伏見じゃなかったんです??(詳しくない) #榊メモ
2013-07-11 14:58:47同年八月、太閤殿下が亡くなると榊原に遺品として刀、兼貞を下賜される。これまだあるんだっけと資料をひっくりかえそうとしたら見つからない罠…… #榊メモ
2013-07-11 15:05:32慶長四年、伏見勤番の交代のために上洛途中、藤川にて石田等の陰謀の風説があり急いで膳所までいき醍醐通りより伏見に入ろうとしたところ、井伊直政から飛脚があり今のところ交戦には至っていないとの書状が届いた。安堵した榊原は勢多(御系図では膳所)に陣をとった。 #榊メモ
2013-07-11 15:23:02秀頼殿の命であるとして勢多の関を封鎖、大坂伏見の騒動のためたくさんの人々がそこで留め置かれた。3日目に関を開き、多数の旅人と共に騎馬にて馬印を押し立て伏見入り。 #榊メモ
2013-07-11 15:33:50また同時に数万人分の兵糧を発注かけたりしてたようで、徳川軍が大軍で馳せ登ってきた、との噂をまいて襲撃をおさえたのだ、という話。井伊榊原のないすこんびねーしょんなんだけどー #榊メモ
2013-07-11 15:39:25ちなみにこの時多分井伊が交代で江戸に戻るはずだったと思うんだけど、結局帰らずにそのまま在京。殿の意向か本人の意向かわからないけど、多分両方なのかなぁ。帰るきっかけを失った人はそのずっとあと手紙で疲れたとか愚痴るはめに。 #榊メモ
2013-07-11 15:49:02