幕末史のざっくりしたまとめと新・徳川家と会津がなぜ薩長に敗れたか

徳川家と会津がなぜ薩長に敗れたか - Togetter http://togetter.com/li/509121 先日まとめていただいたこのまとめの中の自分のツイートを再読したところ、「徳川家と会津がなぜ薩長に敗れたか」の説明が、ほぼ真逆の「薩長がなぜ幕府と徳川家に勝ったか」になっていました そこで改めて説明するとともに、前提としての幕末史の全般的な状況と展開を追加し、補足込みで連続ツイートしてみました。 基本的に大河ドラマ『八重の桜』をきっかけに幕末に興味を持った方向けですので、あえておおざっぱにくくったところ、端折ったところがたくさんあります。どうかご了承ください。
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itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

▼中期2 小攘夷派の拡大と暴発を恐れた幕権維持派+公武合体派が八月十八日の政変を実行、彼らを排除。その後の反撃(禁門の変)を退けた公武合体派は実現の機会を掴むが、陣営内部の主導権争いでまとまれず。 ・八月十八日の政変、池田屋事件、禁門の変  #幕末史私見

2013-06-01 01:26:31
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

▼中期3 小攘夷派の排除イコール幕府強化の機会と考えた幕権維持派が長州征伐を発動。しかし惨敗に終わり、幕府の権威に大きく傷が付く。また薩摩が倒幕派に接近するかたわら、長州とひそかに手を組む。 ・長州征伐、薩長同盟 #幕末史私見

2013-06-01 01:27:11
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▼後期 孝明帝と14代将軍・家茂の死去と15代将軍・慶喜の就任によって、幕権維持派、公武合体派、徳川大君派、王政復古派、倒幕派が入り乱れての政治的駆け引き。ぎりぎりのつばぜり合いの末、薩長と岩倉らの王政復古+倒幕派が勝利する。 ・大政奉還、王政復古クーデター #幕末史私見

2013-06-01 01:28:19
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

この流れの果てに江戸の薩摩藩屋敷焼き打ちと、それに端を発した旧幕府軍の暴発があり、それが鳥羽伏見の戦いを引き起こす。しかし幕府は政治的にも軍事的にも大敗し、以降は新政府に逆らう逆賊とされる。 #幕末史私見

2013-06-01 01:33:12
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

◎幕府と徳川家の主な敗因 実際にはこれ以外にも多数あるが、ひとまず気がついたところだけ挙げる。 ▼現政権主体としての過大な負担 政権主体として喫緊の諸問題に対応しながら、さらに将来を見据えた改革を行うのはもともと困難。 #幕末史私見

2013-06-01 01:34:29
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▼江戸と京の二極化 これまでの江戸だけでなく京も政治的重心となり、その両者において幕府が連動、あるいは協調するのが難しかった。 #幕末史私見

2013-06-01 01:34:50
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▼内部における幕権維持派と公武合体派の内紛 14代将軍継嗣問題と開国条約勅許問題をきっかけに両派が争い、その反動として安政の大獄が発生。さらに水戸天狗党の乱など、度重なる紛争で己の力を弱めた。 #幕末史私見

2013-06-01 01:35:09
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▼長州征伐の失敗 武門の棟梁としての幕府の「権威」に大きな傷がついた。 #幕末史私見

2013-06-01 01:35:26
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

※これらの問題点があっても政権主体として、大政奉還後も約200万石を領する大名家としての徳川家は強大な力を持っていた点にはじゅうぶん注意。 王政復古+倒幕派が最終的に勝利したのは僥倖といってもいいほど。 #幕末史私見

2013-06-01 01:36:48
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

●慶喜という「鍵」 一橋慶喜としての彼は、徳川家連枝として幕権維持のために働くのが当然と考えられた一方で、公武合体派のリーダー的存在としても期待された。また彼の出身は勤王に熱心な水戸家で、朝廷に尽くすこともまた当たり前だとされた。 #幕末史私見

2013-06-01 01:37:25
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

しかし途中からは足場を幕府から朝廷に求め、会津の容保、桑名の容敬らと組んで「一会桑」と称される独自の政権主体(のようなもの)を京で築いた。 ところが15代将軍になり、徳川慶喜になると大君派に転換(というより主導)、その途中で王政復古+倒幕派に打倒された。 #幕末史私見

2013-06-01 01:37:49
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

概観すると、一橋時代は幕権維持と公武合体の間を揺れ動き、将軍就任後は公武合体と徳川大君、どちらになっても己が優位を保ったまま生き残れるよう図ったといえる。 #幕末史私見

2013-06-01 01:38:08
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

きわめて聡明であり、周囲からの期待を集めながら、そうであるがゆえにあまりにも複雑な立場に置かれたこと。 たびたび重責を負いながら、諸藩のように自前の軍事力や経済力を持たない御三卿という家柄だったこと。 #幕末史私見

2013-06-01 01:38:43
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

それ以前の長い内紛から、将軍就任後も幕府内に理解者が少なかったこと。 これらが彼の言動や行動を複雑怪奇なものとした、と個人的には考えている。 #幕末史私見

2013-06-01 01:39:37
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

ちなみに慶喜のパーソナリティについては今回カット。そこまで突っ込むといろいろややこしすぎるw 一応これで本題は終了。あとは補足をいくつか。 #幕末史私見

2013-06-01 01:42:06
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

●補足1:開国と攘夷 よく比較対照される開国と攘夷だが、上記の内容に当てはめる場合、開国に対比されるのは小攘夷だと思われる。開国論の多くはその延長戦上に(外国の文物を取り入れた)自国の強化が挙げられていることが多く、その意味では大攘夷に近い。 #幕末史私見

2013-06-01 01:42:32
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

●補足2:会津の立場 同じく上記の分類に当てはめると、会津は保科正之以来の譜代という点では幕権維持派、容保の血筋という点では公武合体派に近く、両派から上手く利用されたといえる。中でも両派を行き来し、自前の軍事力を持たない慶喜にとって、常に頼もしいパートナーだった。 #幕末史私見

2013-06-01 01:42:57
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

しかしそうであるがゆえに、彼が恭順を選んだ鳥羽伏見後の会津は容赦なく切り捨てられるのだが…。 #幕末史私見

2013-06-01 01:43:44
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

●補足3:岩倉具視の変化 初期には公武合体、後期には王政復古+倒幕派となった彼だが、その根本には常に朝廷の復権があった。その実現のために、状況に応じて手段を柔軟に変えていったといえる。 #幕末史私見

2013-06-01 01:44:23
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

また王政復古でリセットされる対象は武家の「権威」のみならず、摂関や関白などの公卿たちの序列という公家の権威体系も含まれることに注意。つまりこれは岩倉をはじめとした、中~下級公家たちの朝廷内クーデターでもある。 #幕末史私見

2013-06-01 01:45:34
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

●補足4:長州の路線変更 初期には公武合体派の一員として、また大攘夷派として長井雅楽の「航海遠略策」を掲げていた長州が、なぜ小攘夷派へ転換したか。複数の理由が考えられるが、そのうちのひとつは薩摩と島津久光の朝廷への接近。 #幕末史私見

2013-06-01 01:46:01
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

彼らが公武合体派の有力諸藩の中で一歩リードしたことから、下風に立つことを恐れた長州が一気に路線転換して対抗しようとした。 #幕末史私見

2013-06-01 01:46:15
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

さて、ここまで長々と説明してきたが、もともとの質問である「なぜ幕府と徳川家が薩長に敗れたか」をあえてひとことでいえば、「大男総身の知恵が回りかね」というのが正直なところ。幕府はその巨体を扱う術を持てず、意見や行動を一本化することがついにできなかった。 #幕末史私見

2013-06-01 01:50:01
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

内紛に明け暮れ、他勢力との角逐にエネルギーと時間を浪費したために、たとえ小さくても一本化に成功した薩摩や長州の敏速な行動に対応し切れなかった。別のたとえをすれば、巨人ゴリアテとダビデの対決か。しかもゴリアテの方は頭と手足がばらばらに動いている状態。 #幕末史私見

2013-06-01 01:52:18
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

ただ繰り返しになるが、それでも幕府が長年培ったきた力は強大で、しかも末期には英明な将軍である慶喜がいた。ぎりぎりのところで薩長が勝利したものの、ひとつ間違えば幕府が押し切る、あるいは逆転する可能性はじゅうぶんあったことは、個人的にも忘れないようにしたい。 #幕末史私見

2013-06-01 01:55:33