- murapyon71
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【中国に於ける排日熱について】
中韓の反日教育はとても近代国家のありようとは思えない。ですが其の事始めを見ると、導火線に火を付けたのは日本の庶民層であることはたぶん明白なんだろう。だけど僕には論拠が示せなかった。しかし最近ご紹介頂いた『男爵山川先生遺稿』の「支那の排日熱」を読むと大体の流れに論拠が示せると思う。
2013-06-29 18:11:12高島俊男先生は『本が好き、悪口言うのはもっと好き』で「大正より昭和の初年にかけて、日本人特に一般大衆のあいだに、中国人に対する軽蔑の念がかなり普遍的であった事は事実であろう」と述べています。この論拠が僕には示せなかったのですが、この概説が先に挙げた本に載っていたというしだいです。
2013-06-29 18:17:16山川先生の『支那の排日熱』にこうある「支那に於て排外熱頗る強盛…日本より帰来せる留学生が、排日論の主導者なりと云ふ…支那人が…留学生派遣の必要性を感じ、争つて俊才の青年を日本に留学せしめた…現今本邦に留学する支那人が如何なる待遇を受け居るかを見よ。
2013-06-29 18:27:09…幾多具眼の士を除くの外は、世人一様に憚り衷心に於て之を軽蔑するのみならず、言語・挙動に於て之を侮辱し…我を慕うて来りたる留学生が斯の如き待遇…其の反動として、本国に帰りて如何でか日本に対し好感情を有すべき。今日支那に於て排日熱の強盛なるは我が国民が求めて得たる結果に外ならず」
2013-06-29 18:36:33日清戦争後、清朝は科挙を廃止し留学が立身出世のステップとして加味されておりましたので、この様に凌辱感にまみれた中国人留学生が政府の中枢にのぼった後に反日教育に精を出したとしてもむべなるかなといったところでしょうか。
2013-06-29 19:36:46なぜ日本人が中国人を下にみるようになったかというと、石黒忠悳『懐旧九十年』に、清国から媾和大使として李鴻章が来たが、我が軍人社会は、早く北京へ攻め入って、神武天皇祭に北京の戸々に日の丸を翻させなければならぬ意気込みであったとあります。
2013-06-29 19:56:04これが、露・独より異議、さらに英・仏がこれと結んで武力干渉を企つる旨の報が広島大本営からあったとあり、あまつさえ占領した土地は還付することとなり、同胞を犠牲にした地を遺棄して立ち去り、涙を拭うて凱旋とあります。それを迎えた本島人も日の丸をかかげて祝声歓迎したとある。
2013-06-29 20:05:22この時分に相当数の大衆の間に中国人を下にみる風潮が出来たとみてよさそう。この風潮の中、来日した中国人留学生を、相当数の大衆が軽蔑の念を込めて支那人と呼び、支那という言葉が中国人の知識層に嫌われ、後に中国政府の要望により日本の一般社会から支那という言葉が一掃されたのも有名なお話し。
2013-06-29 20:14:17一連の話しは、水野先生(@y_mizuno )の支那という言葉について(http://t.co/57KVViwzRa)につながるものでした。
2013-06-29 20:30:20【以下雑談】
バベリーさんのおっしゃっていたことが一番当を得ていたようだ。
@aizujin_k 支那という言葉が駆逐されたのが大正期で、それは主に民衆の中国人留学生への侮辱的な接し方から来ているので、清朝末期から大正期にかけて、民衆の間に何か感情の変化があったのでしょうね。学問の方で西洋人が御株を上げた潮時はかなりはっきりしている様ですが。
2013-06-17 13:11:42@buvery @murapyon71 思いだしましたが、旧制中学の中国大陸修学旅行というのが、わりに盛んに行なわれていて、昭和の始めまではあったと思います。それが無くなった世代との間に中国観の差は確かにあったなあと、私の知るご老人の思い出の範囲ですが。
2013-06-17 14:02:05@aizujin_k @buvery 民衆の感情を小竹先生は「支那…それ自体に軽蔑の意味はない。結局、従来日本人に軽蔑の念を以てシナの語を使つたものがあつたから」と指摘し、対して学問や指導的立場にあった人の階層では、そういった侮蔑の念は無かった。このギャップが不思議ですね。
2013-06-17 14:30:38@murapyon71 @buvery 宮崎滔天が、派手に孫文応援で宣伝して廻りましたし、国民に人気の高かった犬養毅も孫文に肩入れしたし、一面中国ブーム的にさえ見えるんですが、知識人層を越えて広がったのかとか、そういう雰囲気は時代の人しかわからないかもです。
2013-06-17 14:52:52これは、アジア主義だと思います。征韓論を唱えた西郷隆盛は、明治維新のトロツキーで、革命の輸出は明治の一つの夢です。RT @aizujin_k: @murapyon71 宮崎滔天が、派手に孫文応援で宣伝して廻りましたし、国民に人気の高かった犬養毅も孫文に肩入れしたし、す。
2013-06-17 22:37:33@aizujin_k @buvery 時代の変遷期にちょうど差し掛かったのですかね。大正四年の「対華二十一カ条要求」 http://t.co/v59jhxuRac の時期と、末弘厳太郎先生の、大正に入り西欧に形式的に追い付くと、政府は指導に迷い、江戸時代の錆び刀、(続く
2013-06-17 20:10:30@aizujin_k @buvery 国民道徳で民心統一の必要性を叫び、とあります。ここでいう道徳観は平田篤胤の皇国観のことですから、日本国民が一等高いところにいるという観念ですから、教育が行き届いたころに、朝鮮人や中国人は支配の対称に見えてしまったのかも。
2013-06-17 20:19:07単に観念ではなく、西洋化に成功して、物質的な差がよく見えるようになった時期なのかもしれません。RT @murapyon71: @aizujin_k 日本国民が一等高いところにいるという観念ですから、教育が行き届いたころに、朝鮮人や中国人は支配の対称に見えてしまった
2013-06-17 20:20:50@buvery @aizujin_k 物質的に圧倒的な差が歴然とした時期に、自尊心をくすぐる教育方針が悪い意味で効果的だったのかもしれませんね。大正期の中国人留学生に対する、日本人庶民の侮蔑の念を、少なからぬ人が語ってますからね。
2013-06-17 20:28:46会津のことしか判りませんが、日露戦争時、歩いて出征した兵隊さんが、帰りは完成した磐越西線で凱旋してます。軍隊で洋服や靴を身に付け、カレーの作り方も覚えてくる。庶民も自分たちが文明化した実感を持ったのでしょうね@buvery 単に観念ではなく、西洋化に成功して@murapyon71
2013-06-17 20:29:05@aizujin_k @buvery これは県民の心を惹きそうですね。医学の方で石黒公が、各藩の有望な人や人望のある人を集め、独逸留学組と簡易教育組とに分けて西洋医学を習得させ、人望厚い人が含まれる簡易教育組が各地に散って西洋医学の効能を実証して見せたのが理解の土台にとあります。
2013-06-17 20:45:15【その他、台韓反日感情について】
韓国が元来は華夏思想(こういう言い方で良かったのかな?)で、日本よりは中国に近いという自尊心で、日本を見下していたという感覚は、あまり認知されていないような気がする。今の韓国人がどう思ってるかは知らないけど。
2013-06-30 09:41:41