論理と感情

このところ引っかっかっていたモノでしたので、これ幸いとまとめてみました
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kentarotakahashi @kentarotakahash

彼らはこういう感情に囚われているから、こういう行動をする、というようなね。でも、それって合理的に説明できているんだから、非論理的な行動ではないよね。 @HayakawaYukio

2013-06-19 01:21:39
kentarotakahashi @kentarotakahash

人はもっと突拍子もないことをする。感情の利損では計れないことをする。論理的でない言動や行動というのは、そういうものの方を指した方が良いんじゃないかな。 @HayakawaYukio

2013-06-19 01:29:01
芦田宏直 @jai_an

論理は感情の派生態。 RT @kentarotakahash: 人は論理も感情も操作できる。論理的に見える(実際、論理的である)言動が、実はある感情から発した欲求を果たすために、論理を操作しているものだったり。感情的に見える言動が、合理的な利益追求のため…

2013-06-19 01:07:07
kentarotakahashi @kentarotakahash

先生、ありがとうございます。 QT @jai_an 論理は感情の派生態。 RT @kentarotakahash: 人は論理も感情も操作できる。論理的に見える(実際、論理的である)言動が、実はある感情から発した欲求を果たすために、論理を操作しているものだったり

2013-06-19 01:30:24
kentarotakahashi @kentarotakahash

「論理は感情の派生態」かあ。

2013-06-19 01:35:17
芦田宏直 @jai_an

ここに書いてある。RT @iwwaw: 論理学は哲学から生まれた(厳密には哲学の一分野)から、論理は感情の派生態である、ということですか? @jai_an: 論理は感情の派生態。 RT @kentarotakahash: … http://t.co/wKSFD90EjD

2013-06-19 01:35:11

私の蛇足的独白

もうれつ先生 @discusao

いま@TAKASHIMA724さんの連投をRTしたのは、 一月前の下記TWがずっとひっかっかっていたから http://t.co/AxdZxCdbal http://t.co/evKr7lyYGA http://t.co/sCl5jflxn3

2013-07-23 01:40:05
もうれつ先生 @discusao

「論理は感情の派生態」というのは直感的「そうだろう」と思うのだけれど、モノはハイデガーやフッサールという哲学の文脈中で語られてる話なので、そうそう胸を張るわけにもいかず、オルテガとか読んでいた今日この頃であった。

2013-07-23 01:48:21
もうれつ先生 @discusao

@discusao 内田さんのTWに沿って言うと、論理が先行して自分の外部に存在し、自己の感情の発露や欲望に基づいた行動はそれに規制されたり調整したりして、その結果が自己の論理の形成となる、という考え方がある。 https://t.co/nVv1sYVvi5

2013-07-23 01:57:22
もうれつ先生 @discusao

もうひとつは、自分の感情に基づいた最初の動きの先に論理が発生する、というもの。高村光太郎の「道程」みたいな話、といったら幼稚っぽくなるが、「論理は感情の派生態」と言ったらまずそういう飲み込み方をしてしまうワケですね、私は。

2013-07-23 02:01:39

7月26日伊藤さんのツイート

サブカル的批評からのアプローチ

ちょい難解だけど上記流れと重なっています

伊藤 剛 @GoITO

そういや、以前「感情などない。認識があるだけだ」という主張の方がおられたんですが、まあその意見も分かるものの、その論理は「現実などない。認識があるだけだ」ということになりますよね。(そう言えば言えるけど)

2013-07-26 01:17:50
伊藤 剛 @GoITO

しかしそういったところで、私たちの身体をとりまく物理的環境が消えてくれるものではなし。「感情」もそういったものではないかと考えます。また「感情などない、認識のみがある」という言表は、逆説的に「感情を認識し、自覚すること」のむずかしさを指し示しているようにも思います。

2013-07-26 01:19:40
伊藤 剛 @GoITO

それから「感情的になる」というのは、一般的にそれによって、合目的的、合理的な行動が妨げられている状態を指します。しかし、では目的やまたその行動自体が、誰かの感情に作用するものである場合はどうでしょうか。はたしてその行動から「感情的」なファクターを除去して可能なものなのか?

2013-07-26 01:21:34
伊藤 剛 @GoITO

もうちょっと平たく言えば「感情的」ってもっぱらマイナスの意味でしか使われないけど、本当にそうなの? ということ。

2013-07-26 01:22:14
伊藤 剛 @GoITO

そうに決まってる! といま反射的に思ったひとにお聴きしたいんだけど、ではあなた自身は自分の「感情」をどのように認識し自覚していますか。「感情」にも行動や思考の原動力になるものもあれば、行動や思考の妨げになるものもある。ではなぜ前者は「感情的」と呼ばれないのか?

2013-07-26 01:23:42
伊藤 剛 @GoITO

われわれは、まだ「感情」について思いのほか知らないのではないか。さきほどの問いに答えるには、自身の「感情」を記憶し、反芻し、場合によってはシミュレートして、それぞれの感情を指し示すとされている言葉との対応を考え直すことが必要でしょう。

2013-07-26 01:25:14
伊藤 剛 @GoITO

70年代から90年代なかばにかけてのアニメやマンガ、特撮のかなりの部分は「感情表現」「内面表現」から逃避したい人の心をとらえてきたんですね。ではそういうひとの感情が貧しいといえばそうではなく、豊かであり鋭敏であるからこそ抑圧が必要とされた。感情の動きがストレスになるからです。

2013-07-26 01:40:05
伊藤 剛 @GoITO

「感情が豊かであるからこそ、抑圧される」という心的作用のセットを仮説的に置いてみると、オタクと自認するひとびとの挙動がそれなりに明快に見えてくるのではないかと思います。90年代なかばまではとくにそうだと考えています。お約束や趣向を好み、細部に拘泥する態度もその表れだろうと。

2013-07-26 01:42:17
伊藤 剛 @GoITO

70~90年代の特撮やアニメ、マンガに描かれていたのは、むしろ激しい感情ばかりではないか、という反論はあると思います。しかし、それらの感情表現・内面表現は「子供向け」という制約のもと、定型化され、あるいは誇張されたものでした。

2013-07-26 01:50:21
伊藤 剛 @GoITO

これらの「仮説」は、エビデンスに乏しい(というより、エビデンスを得ることが不可能な)、まったくもって思弁的なものです。だから納得してくれるひとが納得してくれればよいと思います。しかし、この仮説モデルで多くのことが説明可能になるのであれば、少しは有益なのではないかと思います。

2013-07-26 01:55:29
伊藤 剛 @GoITO

感情表現が定式化されていることにより、それは脇に置き、アクションや、ギミックや、設定などに沈潜することができる。ここで「感情が豊かであるがゆえに抑圧される」を思い出してください。感情はないわけではない。過剰なまでの感情表現は受容され、同時にその受容=自身の感情の動きは隠蔽される。

2013-07-26 01:53:14