丹生谷貴志ツイートまとめ(2013年8月)

丹生谷貴志氏の2013年8月分のツイートをまとめました。
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nibuya @cbfn

ソラリスの海がほぼ完全なシミュラクラを生成させるとしてしかし、ソラリスの海は何を素材にして、例えばハリーを生成させるか? クリスの「記憶の中の」ハリーから? つまりはクリスにとってのハリーからハリーのシミュラクラは生成される? 

2013-08-03 14:31:15
nibuya @cbfn

・・・ともあれ僕らはついにあられもなく自己防衛だけを露呈させた世界を目にしているという意味では、なかなか見物の多い事態だが、どんなゲームでもボスキャラが現れてしまうとことはひどく退屈にもなり・・・

2013-08-03 14:47:12
nibuya @cbfn

私小説家は自分の死を書けるのでなければならない。これはあらゆる点で不可能であるけれども、「文学的には」それは「書けるのでなければならない」。むろんそれが書かれること、書き得ることはない・・・にしても。「私小説」が「三人称」で書かれるしかない契機・・・等々

2013-08-03 19:04:19
nibuya @cbfn

小説は(詩は?)、公共言語をそっくり「私的言語」に化してしまおうとする企画(欲望? 意志? 狂気?)である? むろん、馬鹿げた・・・。 例えばルーセルの・・・

2013-08-03 19:08:24
nibuya @cbfn

「真に注視すべきデカルト」と「頽落デカルト主義」とがデカルトにはあるという永井さんの指摘は納得できるがしかしデカルトにとってその頽落形態こそがその「志向の充足」と感じられていたとすればどうか? 頽落と永井さんに指摘されるものこそ、デカルトが思惟において「目指していた」とすれば? 

2013-08-04 00:16:46
nibuya @cbfn

・・・どちらにしろ、「世界は存在することをその本質とする」。「何があっても世界は存在しなければならないからだ」(三島由紀夫)。とか・・・

2013-08-04 12:09:44
nibuya @cbfn

論理的思考にも「文体」は存在する。例えば永井さんの〈独我論〉には〈私〉の一種絶対的な〈秘性〉の論証的提示以上に、〈私〉が常に既に圧殺と抹消によって消されて来たし消されているという認証に基づく「攻撃性・闘争性」の「文体」があり、従って永井さんの論証は常に「批判−戦い」の文体を持つ

2013-08-05 20:25:22
nibuya @cbfn

対して例えば「殆ど同じ」ことを論証するかに見える入不ニ基義さんの〈私〉はより顕示的であり、「隣人を持たぬ孤絶」の中においてさえそこには「有り得ざる共同」としての「エロス」への思考的文体が読み取れるようだ・・・。

2013-08-05 20:29:54
nibuya @cbfn

ウィトゲンシュタインの強い陰影に切られるような自己破壊的でありながら表現的でもある文体は周知のことだが、一方クリプキには共同にも孤絶にも過剰な意を払うことのない、乾いた砂の上をカチカチと編んで行く透明な樹脂の網のような文体があり・・・

2013-08-05 20:37:21
nibuya @cbfn

アルトーは晩年、新たな詩を発見したといって知人を呼ぶ。彼の言う発見は詩作品ではなく「朗読法」を意味した。彼は鉄の火掻き棒でテーブルを破壊するほどの激しさのリズムで打撃しながらキャロルの一節を、引き裂くように叫び続ける。言語を破壊すること? むしろ破壊としての”詩語”を実現すること

2013-08-05 21:49:41
nibuya @cbfn

私事。僕は子供のときからノートというものが全くつけられなくて、学習ノートは真っ白のままか意味不明の絵を二三項書いただけで失くしてしまう。これは今に至るまで同じで、一切ノートもメモも付けられない。大体が僕は自分の字が大嫌いで耐えられない。ここはその最後の打開の試みみたいなもんです

2013-08-05 23:20:45
nibuya @cbfn

ああ、島田雅彦から新作『ニッチを探して』届く。まずはありがとう。相変わらずの勤勉な健筆・・・今は読んでいる余裕がないので感想は控えます。しかし僕としてはそろそろアナクロニックな、鈍重を恐れない小説を島田さんには期待してしまう・・・

2013-08-05 23:31:46
nibuya @cbfn

ぼんやり、島原の乱は三万七千人が死に最後の三千近くは籠城戦の末の刑死、その後十年島原半島のその一帯は死体が朽ちるのを待つ曠野だったと想像する。史実と山田風太郎とかのイメージが重なってしまう。無意味な映像。宮本武蔵も参戦していたという伝説。勝敗を左右したオランダ戦艦の艦砲射撃・・

2013-08-05 23:38:59
nibuya @cbfn

・・・こういう伝聞経歴は全くもってどうでもいいことだが、僕には南紀の血筋と鹿児島、長崎の血筋がある・・・とか聞いた覚えがある。といって、九州には足を踏み入れたこともない。

2013-08-05 23:43:37
nibuya @cbfn

・・・九州と言えば芭蕉最後の旅はそこに向けてのものと言われるが途中大阪で客死している。実際の話芭蕉は生涯を漂泊したわけではなく、文人万里千里漂泊を夢見た大雅や宗祇に比しても実はさほどの旅−漂泊の痕跡はないそうだ。ともあれしかし芭蕉は連歌に時空を編んで言葉の列島を宙に浮かばせた・・

2013-08-06 00:05:16
nibuya @cbfn

古川日出男さんのロックンロール小説にインドのプレスリーという小話が出て来る。『ディスコダンサー』というまさにそのまんまのインド映画が出て来るかと期待したが出て来なかった。僕がインドにいた時この怪作は熱狂的大ヒット映画で、聖地ベナレスまで映画館前はまるで動乱デモの拠点の様だった

2013-08-06 00:16:44
nibuya @cbfn

渡辺謙さん主演の『許されざる者』のリメイクが出来たそうで予告編を見た。まあこれじゃ分からないが忠実(!)な再現風。小池栄子さんはどんな顔に使われるのか。しかしイーストウッドのものは美しい音楽映画でもあった。最後の、すべてがフッと宙に消える溜め息のような画面と音楽の一瞬はどうか・・

2013-08-06 00:59:35
nibuya @cbfn

イーストウッド映画の音楽は大方ラロ・シフリン、レニー・ニーハウス、それに彼自身。どれも目立たないがいい「映画音楽」。『ブロンコビリー』の主題歌は可愛いし『ダーティーファイター』でのレイ・チャールズとのデュエットもいいし『グラン・トリノ』のコワルスキー声でのクレジットの曲も歌もいい

2013-08-06 01:25:17
nibuya @cbfn

大雨が降ると、何故、いつから自分は空から水が大量に落ちて来るという異様な事態に慣れたのか、思い出そうとする。サン=テックの『人間の土地』に生まれて初めて滝を見て、それが「流れ終わるまで見ている」と言い張る砂漠の子供たちが出て来たと記憶する。「こんなこと、ある筈がないんだ!」・・・

2013-08-06 02:01:14
nibuya @cbfn

尾籠な話で恐縮ですが!、小学校の時或る子が「オシッコがしたい」と言った時別の子が、「オシッコがしたい、じゃないだろう、オシッコが”し終わりたい”だろ!」と反論した。ラッセル的傾向性理論に対するウィトゲンシュタイン的反論のようだと(?)、不意に思い出す。

2013-08-06 10:42:40
nibuya @cbfn

その子は、まあ小学生には結構そういう子が多いと思うが、妙な具合に言葉に苛立っていたように思う。言葉に不意に妙なこだわりを示す−−例えば記憶に残っている別の発言「空は深さを装っている平面である。網膜に写ったものを見てるなら見えているものは遠いはずがない!」等々・・・

2013-08-06 10:52:40
nibuya @cbfn

ノストラダムスの書は彼が真実と信じた「黙示録」への詳細な”想像的”注釈書である。とすればそれは既に記述し終えられた「過去」に関する記述であり、厳密に言えば「未来に関する予言」ではない。因に「易」は生ずるだろうことに関する確率論であって「予言」ではない。

2013-08-06 11:24:20
nibuya @cbfn

ケージの『易の音楽』とクセナキスの群論の音楽・・・・

2013-08-06 11:26:38
nibuya @cbfn

全く不意に如月小春とい名が頭を過ぎる。面識はない。立教構内で倒れ亡くなった後、宇野邦一さんからその時の話をきいたか? 或る男が「啼くな小鳩よ」の歌詞をもじって「泣くな小春よ小春よ泣くな」と歌った吉祥寺の夜をこれまた不意に思い出すが、その記憶の関係の網目も今は見えない。

2013-08-06 13:18:08
nibuya @cbfn

川端康成の歌謡曲歌詞「月の光に波は煌めき/沖を稲妻は貫いて白く/二人歩めど影はない/生きているのに」。安部公房の歌詞「夜の都会は糸の千切れた首飾り/あちらこちらに飛び散って/暖めてくれたあの胸は/どこに行ってしまった/迷いっこ」・・ってことまで不意に引き出される。何でしょうかねえ

2013-08-06 13:33:33
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