丹生谷貴志ツイートまとめ(2013年8月)

丹生谷貴志氏の2013年8月分のツイートをまとめました。
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nibuya @cbfn

ああ、別に何かの感慨に襲われたということでは全然ない。ジム・オルークの歌う『矢切の渡し』を思い出していたらこんな具合。

2013-08-06 13:35:29
nibuya @cbfn

クリプキの最初の論文が発表されたのは1959年である。「従って」、僕はクリプキを読んだことのないアメリカ現代美術批評を認める「べきではない」と思うことにしている。本来感応−官能の放恣への批判として形成されたものを僕らは感応の放恣を許すことによって「悦しんで」しまっている・・・

2013-08-07 09:49:33
nibuya @cbfn

・・・って、別にクリプキを「理解」している必要はないので、そうではなく、平行現象の「全てを」見渡す義務が少なくとも「職業批評家」には必要だという至極当たり前のことに過ぎません。単に、例えばグリンバーグをクリプキやらの「中で」批評しつつ読むのは当然の義務だということです

2013-08-07 10:06:05
nibuya @cbfn

現時点で少なくとも日本でまとまった「現代美術批評」の本が豊富に出るという可能性は殆どない・・・これは批評家の怠慢とか以前に出版事情が許さないことがあるのだけれど、せめて批評誌は「理論系論文」方向へ今少し活発であるべきだと思います。せめて鼻歌気分で衰弱して行くことに抗する為に・・・

2013-08-07 10:13:21
nibuya @cbfn

「日本独特の官能への放恣」というものがあるとしてそれは「欧米」にとってはフーコー風に言えば「西欧的セクシャリティに対する東洋的”愛戯の技術化”」として批評的で有り得るとして、「その中に」置かれているものにおいては要するにそれは「放恣そのもの」であってそれ以上でも以下でもない・・・

2013-08-07 10:28:47
nibuya @cbfn

しかしまあ、もはや英語くらいは原書で読めと言ってもグリーンバーグすら美術批評選集が、しかも藤枝さんの良心的だけれど硬い訳文一冊だけというのは何でしょうかね。批評家にはもう今更なのかしら? あっ、上田高弘さん本出してたんだ、教えてよ・・・って、本屋行かないのが悪いのか。

2013-08-07 22:39:28
nibuya @cbfn

「絵画」が「人類」に普遍にされるとして「美術」は普遍ではない。僕らが「美術」と呼んでいるものはたかだか二百年ほど前に「発明」されたものであり多分今から半世紀ほど前に「その存在理由」を終えたと思われる。それは言わば逃げ水かさまよえる湖のように別のものとなって消え今あるのは残波・・・

2013-08-08 00:59:46
nibuya @cbfn

「今私が見たのは海が誕生してから何番目の波だったのか? 私は会釈する・・・」−−P・ヴァレリー

2013-08-08 01:03:03
nibuya @cbfn

マニャックな話で恐縮ですが(!)、ロザリンド・クラウスがロラン・バルトのコレージュ講義の英語版翻訳者の一人なんですね(『中性について』)。まあ、だから何だということか、或いは何となく、納得と同時に軽い疑問を感じて・・・・

2013-08-08 03:28:46
nibuya @cbfn

マニャックな私事。バイクは一年で一万三千キロ走ってしまったので(全部通勤です!)そろそろフル点検、タイヤも替えなきゃいけない(ミシュランかメッツラーか・・・)・・・と思うと鬱陶しい。いや、大事にしてますが、契約のバイク屋さんが遠いんで・・・

2013-08-08 03:33:57
nibuya @cbfn

久しぶりにクリプキのウィトゲンシュタイン論を読んでいて、さほど本質的ではないが曖昧な訳文が気になり・・・どうもクワインが出て来るところでそれが目立つようで、訳者は或いはクワインに同情心があって、クリプキの裁断を緩めようとしているのかもしれないと勝手に思う・・・

2013-08-08 03:57:32
nibuya @cbfn

「およそクワインは、直接的な観察報告ではなく、十分に「理論的」な言明に関する解釈は、私の理想的傾性によってさえも決定されいないのだ、という事を論じている」・・・昔はこういう文章が分からないと自分の頭が悪いと思ったものです・・・

2013-08-08 04:12:35
nibuya @cbfn

「クワインは、「理論的に」不足なく明確な言明についての解釈であっても、我が理念的−理想的傾向性理論によってすら明確に決定出来ないことがあるのだと、確たる観察例も示さずに、(大雑把に)論じることから始めます」・・って程度の意味じゃないかなあ。僕の英語力も大概なので自信ありませんが。

2013-08-08 04:35:31
nibuya @cbfn

九月にポルトガル映画の会で話す(!)のを引き受けてしまったので付け焼き刃でペッソアの『リスボン案内』などを注文。仏語で持っていたはずが見つからない。そういや、オリヴェイラの最初のフィルムは『ドウロ川』というスペインからポルトガルのポルトに注ぐ川だけを撮った奇麗な短篇だった。

2013-08-08 04:49:24
nibuya @cbfn

『白い街へ−−路の果てるところ』ってなあポルトガル、リスボンの現代美術散歩(?)みたいな本を杉田敦が書いているのをみつける。あの杉田さんだよね? とちょっとだけ驚く。速攻で古書を注文。これまた「知らせてよ〜」の類い・・・

2013-08-08 04:56:48
nibuya @cbfn

すいません、ここのところ二三打ち間違いが目立ちます。夏風邪の上に眠れないんで・・・は言い訳ですね。散漫。先日、ノートが付けられないと書いたので反省でノートを買って来たのですが、間違えて速攻で燃えるゴミと一緒に捨ててしまいました。相性でしょう。

2013-08-08 05:01:01
nibuya @cbfn

あ! 青山さん未だ『共食い』見てない。なんとか見ます。中上健次だね、こりゃ、と四方田も言ってましたが。楽しみに・・・・

2013-08-08 05:21:46
nibuya @cbfn

「現代に徹するためにはまず十分歴史が抹殺できなければならない」と、大岡昇平さんが書いています。例えばフーコーの仕事は「歴史の見直し」などではないことは言うまでもないことです。例えばそれは「歴史」と僕らの間に仮想される「傾向性」を蒸発させてしまうこと、を意味するでしょう・・・

2013-08-09 01:44:59
nibuya @cbfn

「傾向性」の英語は「disposition」です。フーコーも多用するこの語を僕らは少し漫然と、「配置」と訳して来てしまった・・・

2013-08-09 01:47:49
nibuya @cbfn

・・・或いは例えばクリプキがウィトゲンシュタインを「通じて」執拗に告発するのが何よりもこの「disposition」であることに注視すべきでしょう。

2013-08-09 02:15:03
nibuya @cbfn

ニーチェの「系譜学」は「歴史に埋め込まれた傾向性」を暴露する試みだった。フーコーはそれを引き継ぎ、そしてその「考古学」は「歴史は何を”隠す”ことによってその傾向性を正当化したのか」を暴露する試みであり・・・

2013-08-09 02:21:04
nibuya @cbfn

「右脳的人間と左脳的人間」というかなり怪しげな視点から人類の全歴史を書こうとした頓狂な試みにジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』(邦題)がある。これこそは文字通り「傾向性」だけで書かれたものだが、その殆ど狂的な頓狂さにおいてむしろ傾向性への深刻なパロディとなっている点が興味深い

2013-08-09 02:33:59
nibuya @cbfn

「異文化間コミュニケーション論」と漠然と呼ばれる「学」が基本的に行動心理学に基礎を置き「諸文化」の「傾向性」の分析から成り立っていること・・・しかしそれはそれらの「傾向性」の動態を別の傾向性においてコントロールする「Dispsitionism」に他ならないということに注視すること

2013-08-09 02:58:39
nibuya @cbfn

永井さんはデリダ哲学を超越論的冗談と呼び、誤解を招く可能性はあるにしても正当な把握だと思う。形而上学的冗談は論理的に言えば超越的仮想としての「外部」を「前提」する。それを永井さんは「高次のキリスト教性」と呼ぶがこれはどうか。デリダも認めていたようにむしろそれは高次のユダヤ性だろう

2013-08-10 11:38:16
nibuya @cbfn

まあ、たかが哲学なのだし、たかが小説、たかがアート、たかが映画なのだが、映画に対して事情が多少特殊なのはそれが「たかが」と言わせる為にでも個人では賄えない「金銭」を必要とし要は「ペイ」を必要とするからでしょう。大部分の映画は「たかが」と言われる以前に誕生前に抹殺されてしまうのだ

2013-08-10 13:17:35