うぎゃあ @yugamiyousai さんによる與那覇潤・東島誠『日本の起源』覚書

うぎゃあ @yugamiyousai さんによる與那覇潤・東島誠『日本の起源』(太田出版)自分用覚書 出版社サイト http://www.ohtabooks.com/publish/2013/08/29153651.html
3
うぎゃあ @yugamiyousai

・武家政権内部にも二重性がある。バッファー(緩衝帯)としての二頭体制。西国の戦国大名は代替わりの際に父と子で共同統治の時期を設けた。また武家政権の成立過程を見ると、頼朝と義経、尊氏と直義のように兄弟で役割や支配地域を分担した(時間軸とは)別の意味での二重統治も。

2013-09-18 22:00:41
うぎゃあ @yugamiyousai

・後者の場合、政権が安定しだすと兄が弟を粛清する。バッファーが逆に政権崩壊の火種になりかねないので。 ・中国的独裁を志向した後醍醐天皇はバッファー不要論者だったがアカウンタビリティ(説得力)が足りてなかった。立川流とかエロいし。

2013-09-18 22:02:10
うぎゃあ @yugamiyousai

・イエ制度の根幹は自分の属するイエが世代を超えて続いていく「家永続の願い(柳田國男)」。これは古代から日本にあったものではなく、中世への過渡期に創られたもの。

2013-09-18 22:03:03
うぎゃあ @yugamiyousai

・『中国化する日本』では十二世紀後半の源平合戦を重商主義的で中国的な平氏vs農本主義的で江戸時代的な源氏という日本が取り得た二つの選択肢の対立とした。

2013-09-18 22:03:46
うぎゃあ @yugamiyousai

・ただ当時の朝廷から見た選択肢は平氏、頼朝、義仲の三つ。藤原兼実の日記『玉葉』は当時の状況を三国志に準えて表現。頼朝は「平氏よりマシ」ではなく、「義仲よりマシ」として選ばれた。

2013-09-18 22:04:00
うぎゃあ @yugamiyousai

・西国は平氏が、山陰と北陸は義仲が京都への食糧搬入を断っていた状況で東国の頼朝だけが京の飢饉に対処。朝廷としても頼朝の東国支配を認めるしかない。中世を通じて「京都をいかに食わせるか」で権力の構図は決まる。

2013-09-18 22:04:40
うぎゃあ @yugamiyousai

・この時朝廷との交渉窓口となり、東国から京への入口にあたる伊勢国の鈴鹿関を管理したのが弟の義経。検非違使任官はその必要に応じた為。『吾妻鑑』は間違っている。

2013-09-18 22:05:32
うぎゃあ @yugamiyousai

・当初、頼朝の頭の中にあったのは二頭制ではなく、頼朝(内政)、範頼(軍事)、義経(外交)の三兄弟による機能面での三頭制構想。これが頼朝(東国)、範頼(九州での戦争遂行)、義経(畿内近国の治安維持)という担当地域の三頭制に移行。

2013-09-18 22:05:46
うぎゃあ @yugamiyousai

・伊勢の乱後、頼朝は西日本における御家人所領の給与という主従制の根幹をなす権能まで義経に与えてしまう。空手形とはいえ権限としては頼朝と同等。室町将軍と鎌倉公方ならぬ畿内公方と鎌倉将軍のような二頭制。

2013-09-18 22:06:33
うぎゃあ @yugamiyousai

・頼朝の二頭制ないし三頭制構想は平氏という敵対勢力がいればこそのバッファーだった。義経も範頼も結局は戦後に粛清される。「兄より優れた弟など存在しねぇ!」というイエ原理の恐ろしさ。

2013-09-18 22:06:53
うぎゃあ @yugamiyousai

・分割相続の中国と長男総取り(田分けはたわけ)の日本の違い。フロンティアの有無が原因なのでは( 関曠野?)。長期安定社会ではパイの総量が限られ、競争がうまく機能しない。

2013-09-18 22:08:17
うぎゃあ @yugamiyousai

・日本列島は狭いように見えて東西に細長い(花綵列島)ので統一的支配は案外難しい。畿内統治と畿外統治はダブル・スタンダード。西国だって東国に負けず劣らずの厄介さで、中世の九州は「鎮西九国ことごとく管領にあらず」という半独立状態。

2013-09-18 22:08:40
うぎゃあ @yugamiyousai

・頼朝が当初構想した三分、二分統治のように日本を東西のブロックに分けるというバッファーがむしろ常態であり、一つに統合できる(すべき)と考える方が何らかのショックに対応した例外的状態。

2013-09-18 22:09:31
うぎゃあ @yugamiyousai

・弟を殺してしまったせいで西国への支配着手が遅れた頼朝政権を「東国国家」と見なす議論。五味文彦や本郷和人は「国家」という表現を躊躇して「二つの王権」と呼んでいるが、頼朝的にはやはり「国」だったのでは。

2013-09-18 22:09:45
うぎゃあ @yugamiyousai

・謀反(むへん)と謀叛の違い。前者は単一国家内での反逆罪。後者は「いうところ、圀(国)に背き、偽に従うを謀る」自他二国家間での反逆罪。 ・頼朝は発給文書上で朝廷への謀反と幕府への謀叛を厳密に使い分けている。(鎌倉後期には「主上(天皇)御謀叛」という律令国家ではありえない表現も)

2013-09-18 22:10:18
うぎゃあ @yugamiyousai

・室町時代には東西で同等の権能を持つ将軍と公方が並立していた。この安定のためのバッファーが逆に火種となり(何度目だ)、永亨の乱に始まった関東動乱が戦国時代を準備。

2013-09-18 22:11:23
うぎゃあ @yugamiyousai

・鎌倉幕府の御家人と古代の「軍団」との違い。パーソナル(人格的)な主従制で組織された武士の集団が前者。インパーソナル(非人格的)な統治権によって組織された農民の集団が後者。

2013-09-18 22:11:56
うぎゃあ @yugamiyousai

・普通、私たちは社会制度がパーソナルな紐帯に依存しなくなっていく過程を「近代化」と呼ぶ。公務員の友達だから優遇される国より、規定の書式にしたがって届け出れば誰でも均等なサービスを受けられる国の方が文明的。 ・この感覚でいくと古代から中世への移行は進歩というより退歩だったのでは。

2013-09-18 22:14:00
うぎゃあ @yugamiyousai

・従来対立的に見られていた朝廷と幕府を相互に補い合うバッファーと見るなら、それは東国国家論ではなく権門体制論。或いは「二つの王権」のような中心が二つある楕円形の国家観? ・理念型分析には複数のものさしを用いるべき。ジャンル分けに使うのは邪道で、差異の発見に活用してこそ意義がある。

2013-09-18 22:14:51
うぎゃあ @yugamiyousai

・室町幕府開創期、足利尊氏と直義の兄弟が分担した「主従制的支配権」と「統治権的支配権」。武士社会のベースはパーソナルな人間関係。御家人AとBが対立した際、将軍が片方に肩入れするのは不都合で、そういう憎まれ役は弟に任す。

2013-09-18 22:15:25
うぎゃあ @yugamiyousai

・西洋近代との対比。「人ではなく法が裁くのだ」「法の下に人は平等だ」という論理。法治国家とは社会秩序の中から主従制的(=人格的)な原理をパージし、統治権的(≒非人格的)原理の濃度を高めていこうという姿勢の国。

2013-09-18 22:15:30
うぎゃあ @yugamiyousai

・最終的には価値判断の裁定者を完全に非人格化するのが理想。究極に客観的な第三者=神? ・戦前戦後の象徴天皇制。中立神としての天皇。法外の救済者。「第三者の審級(大澤真幸)」を要請すればするほど王権が強化されてしまう構造。

2013-09-18 22:16:47
うぎゃあ @yugamiyousai

・ヨーロッパの法による支配の起源。一つは王に対する封建貴族の自律性の高さ。もう一つはキリスト教。俗権が分裂し過ぎていた為、地域を超えて共有されるルールを教会法が担った。

2013-09-18 22:17:39
うぎゃあ @yugamiyousai

・戦後日本の歴史家たちは日本史の中に(西洋的な)統治権的支配の根を探してきた。貞永式目や十七条憲法がマグナ・カルタのように王の専横の抑制装置に発展する道はなかったか。→ベクトルが王から臣下と真逆なので無理筋。

2013-09-18 22:18:06
うぎゃあ @yugamiyousai

・鎌倉王権と朝廷では前者の方が法治的で後者の方が徳治的だった。というのも後者は暴力装置=物理的な裁定執行能力を欠いていたため。

2013-09-18 22:18:32