「俺の事を理解してくれ~」より「俺の事を誤解してくれ~」という表現者の方が「強い」

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Jin Bonham @jinbonham

映画でも音楽でも文学でも何でもいいんだけど、不特定多数に向かって発せられた表現というのは、<理解>じゃなくて<誤解>によって広がっていき、広がっていくことによって力を持つものだと思う。(続く)

2010-10-08 12:25:47
Jin Bonham @jinbonham

(続き)<誤解>っていうのは、受け取り手が間違ったメッセージを受け取るってことじゃなくて、例えば万人が共感するラヴソングでも、ひとりひとりの心の中では、それぞれ固有の恋愛体験などと連鎖してくるわけだから、そういう意味である種の<自分勝手な共感>にならざるを得ない。(続く)

2010-10-08 12:29:11
Jin Bonham @jinbonham

(続き)でも、発せられたメッセージがそうやって勝手に(でもその人の中では絶対的に)解釈して良いという<開かれたメッセージ>だからこそ、多くの人にとってそれぞれが自分勝手に理解(=誤解)できるものほどヒットするのでは。(続く)

2010-10-08 12:33:41
Jin Bonham @jinbonham

(続き)だから、映画でも音楽でも文学でも、唯一無二の「正しい」読み取り、絶対的な理解などあるわけがない。俺の読み取り方が「正しく」、お前の読み取り方が「間違っている」なんていうのは、随分尊大な言説だなあ、と思う。(続く)

2010-10-08 12:37:27
Jin Bonham @jinbonham

(続き)ものすご~く甘いラヴソングや恋愛映画を聴いたり観たりして、現在の幸せに重ね合わせる人が「正しい」ですか?失った恋に思いを馳せる人が「間違い」ですか?(続く)

2010-10-08 12:41:11
Jin Bonham @jinbonham

(続き)映画評論家が、ある映画についてどのような理解(あ、誤解かw)をしようとOK。それでメシ食ってるんだから、批評自体がもうひとつの作品となって多くの読者に支持されたいと望むのも当然。博覧強記を武器に読者を唸らせるも良し。新たなコードで斬新な作品分析するも良し。(続く)

2010-10-08 12:48:18
Jin Bonham @jinbonham

(続き)でもそれだって100%読者に理解されているから売れるんじゃなくて、多くの人の固有の脳細胞に、固有のやりかたで浸透する<開かれた>作品だから売れるんだと思うなあ。(続く)

2010-10-08 12:51:56
Jin Bonham @jinbonham

(続き)評論家だって表現者なんだから、その辺の事がわかんなきゃ。「俺の事を理解してくれ~」より「俺の事を誤解してくれ~」っていう表現者の方が「強い」よ、ホントは。(続く)

2010-10-08 13:04:12
Jin Bonham @jinbonham

(続き)僕はなんにせよ、「これが正しい」「これが間違っている」「こっちが上」「こっちが下」っていう価値観で語る映画評論より、その作品が大好きで、どこが自分にとって大好きな所なのかが個性的に書かれていて、読んでいて映画と共にその評論家が好きになっちゃうような評論が好きだなあ。(了)

2010-10-08 13:05:37
Jin Bonham @jinbonham

ふう。つい作品評価・評論という話に敏感になってしまった。上手に薦めてくれる評論や自分では明確に言語化できなかった感覚を的を射た表現で明文化してくれる評論は大歓迎だけど、「かくあるべき」みたいなのはちょっと押し売りっぽくて苦手なだけなんです。解釈は勝ち負けじゃないんだからさ(^^)

2010-10-08 13:11:15
ピット @ALIEN_PITT

@jinbonham @jinbonham 拝読しましたー。同感ですねえ。そのひとつひとつの評論に対しても読み手はそれぞれ解釈するわけですしねえ。

2010-10-08 13:13:54
Jin Bonham @jinbonham

@throwball 「作品」という具体物があって、それが誰かに帰属するのではなく、「作り手」と「受け手」が存在した時点で「作品」という概念が生まれるのかも。隠遁者が一人で作って誰にも見せない陶磁器でも、「作る自分」と「見る自分」という「作り手」と「受け手」がいる気がします。

2010-10-08 13:21:42
タキ @snoowbaall

@jinbonham 隠遁者なるほどです!作品は「作者のものですら無い」ということですよね。

2010-10-08 13:56:58
Jin Bonham @jinbonham

@throwball 作者隠遁者には「作り手のもの」だし、お客隠遁者には「受け手のもの」。本当は絶対0度地点にあるんだと思います「作品」は。ただ、作り手も受け手もその極点には立てない。あとは作られて初めて見る事が出来るという不可逆的な流れだけ。その意味では作り手が<先>ではある。

2010-10-08 14:34:11
タキ @snoowbaall

@jinbonham 面白いー!ちなみにですが「作者隠者が作品と対峙する時-対峙する以上は-客観的視点が発生」→「主観のみの消失」→「極点には立てない」→「作品は作者のものですら無い」ということでした。言葉足らずでずみません。。。

2010-10-08 16:19:37
Jin Bonham @jinbonham

@throwball 言葉足らずなんてとんでもない!絶対的主観が存在するする極点はないということですね。バルトが日記論で「日記は、書いた自分だけのためにあるようでいて、実は読む自分に向けて書いている自分がいる。非公開性のテクストのようでいて本質的に公開性を持ったテクストだ」と。

2010-10-08 16:38:25
Jin Bonham @jinbonham

@throwball わかったようなことツイートしてすみません!でも作者と作品とお客さんの関係って、とっても不思議で面白いですね~♪

2010-10-08 16:39:50