楽しみと幸福と強さと倫理。
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L_O_Nihilum
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倫理学の固有の問題。 道徳的観点からそう信じるべき正しい理由と、 自分の人生の幸福という観点からそう信じるべき正しい理由と、 学問的真理認識の観点からそう信じるべき正しい理由 これらはそれぞれ食い違うことが多い(さっきの永井先生の本から)。
2014-05-24 12:34:51![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
道徳についての正しい認識と道徳的に正しいことは違う。 善き道徳がこう思って行為しなさいということと、 良き人生論がこう信じていきなさいということと、 正しい倫理学説がこう考えれば真実を知ったことになるということは、 それぞれ両立しないことが多い。
2014-05-24 12:38:24![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
さらにややこしいのは 道徳についての正しい認識は道徳的に正しいことをその内部に含んでいるということだ。
2014-05-24 12:38:42![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
だから、どういう状況ができるかというと、 「どういうこと言ったほうが世の中を善い世の中にするか・どういうことを言ったら人が幸せになるか」を知っているけど、自分ではそれが信じられない、てことが、倫理学者には必ず起こらなければならないし、そういうジレンマに必ず悩むって状況だ。
2014-05-24 12:40:01![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
自分が教祖で、信者たちを幸せにしたければ、幸せになるようなウソをつかなければならない。そしてそれを、自分は信じることはできない…
2014-05-24 12:40:49![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
似たような道理が強弱、幸不幸にも言える。 てか、おい永井せんせ、幸福って言葉もうこんなかにはいってるじゃん。
2014-05-24 12:41:25![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
幸福のシステムを使ってる人が、不幸のシステムの渦中にいる人に、幸福になる方法を言うためには、幸福になれる方法というウソをつかなければならないが、自分はそれを信じられない。そのほうほうで幸福になったことなんてなかったんだから(あるいは忘れてるんだから)。
2014-05-24 12:42:20![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
これとまーったくおなじことが言えちゃう。 こうしたら幸福になるという方法と、幸福はこうだと世の中が思うこと、そして「これが本当の幸福」という認識はそれぞれ違う。 そして三つ目はひとつめと二つ目を含んでいる。
2014-05-24 12:46:15![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
だから、三つ目を知ってる幸福な人は、ほんとうの幸福になる方法を使ってのし上がってきて今に至ってるから、世に言われる幸福になる方法とかいう納得してもらえるような言い方のやつはどんな人生論も社会論も信じていない。
2014-05-24 12:47:22![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
一方で、自分がそれを話すときには、かれらがみんな幸福になるとこまるという前述の理由から、彼らが実践してだまされてくれるように、幸福になる方法や生き方、社会についてのウソの内容を吐く。弱者や苦しい人であってはできっこないことを、あたかも弱者や苦しい人ができそうな風に言う。
2014-05-24 12:48:33![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
もちろん、のしあがって幸福になった人は、そののしあがりかたを知られると困るから嘘ばっかついてくわけだ。あるいは、デキる人間だけそこに誘致するために、 「てきとーに」嘘をつく。中身がわかってて本当のほうを実践できるだまされないやつ、使えそうな奴は「収穫」つまり入信させるわけね。
2014-05-24 12:49:50![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
もち、収穫のさいには、泥は落としますよね、出荷するためにw。 それと一緒で、かれがもっている弱者側の観点あるいはプロセスは、忘れさせる。 神様の入信行為への手ほどきと同じ儀式をするのだ!
2014-05-24 12:50:31![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
あー。さそわれてたゲンロン会員にもっとなりたくなくなってきた 有名な話だよねー、オウムを研究しようとしたらオウムに入信しちゃったー、っていう話。 オウムを研究するためにその内部に入ったら、内部に入った理由は忘れさせられた、ってのが本当のところなんだけどねー
2014-05-24 12:51:32![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
楽しみについての理論である享受論もこうなるのかな 本当の楽しみについての考えはとても残酷なものになる
2014-05-24 12:54:34![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
めっちゃくちゃあたりまえのことかもしれないが そりゃそうだ 倫理学とはその当たり前をその外から観察するから 倫理学の命題はあたりまえなものにしかならない 当然 つまり倫理学の話はすでにみんなが知ってる話ばっかりなのだー (もちろん僕の考えるものも)
2014-05-24 12:58:34あなたはどっち。?
「絶望するよりは、希望を持つほうがいい」――ゲーテ
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「ああ、希望はたっぷりあります。
──ただ、ぼくらのためには、ないんです」――カフカ
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「すべてに敵対してこそ真のアマノジャクだ」 そんな天邪鬼ってニーチェ的なルサンチマンの典型的なお手本 でもそのお手本は彼本人にしかなれないし、誰も学べないし、学べてはならない 真の利己主義は全てに関して利己的でなければならぬので他人に「利己的になれ」って言えないのだ
2014-05-24 18:25:34おまけ 弾幕アマノジャクちょっと考察
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仏教では自利行と利他行というものがあるけれど ルサンチマンを極める、天邪鬼を極めると言う事はいくつか条件があって ○全部完全に自分勝手であること ○すべての価値観が周囲と完全に反対である事(OppositeではなくAgainst) 究極的に自利でなければならないのだ
2014-05-24 18:26:57![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
もっと言うと、すべての周囲の自利=幸福、ラッキーがあってはならず、 自分だけが幸せでなければならないから 最高の幸せ者であり、最高にすべてを楽しめる奴でなければならない これは結構難しいぞ
2014-05-24 18:28:03![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
つまり総てを敵にまわして、そのすべての敵に完全に敵対される其の人生を喜ばなければならないからだ ンな事が出来る人間はどれだけいるんだか まあワーグナーみたいに文化的側面で疑似的にソレやるずば抜けたやついるけど そしてそれはまた、「嘲笑的」であってもいけない
2014-05-24 18:29:59