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土曜日 @doyoubi
八木誠一読書ノート:神は世界と人間がそこに置かれている「場」であり、身体としての人間は、神の働きが宿る「場所」。場所論が語られる理由は、神は人格でも存在(実体)でもなく、働きだからである。yahwist.jimdo.com/%E5%A0%B4%E6%8…
土曜日 @doyoubi
本書が「神のはたらき」と呼ぶ現実は確かにある.それは確認可能な事実である.それを示すのが本書の第一の目的である.ただし「神のはたらき」は,人間の世界では,ただ人間を通して,人間のはたらきとしてのみ,現実化するのが基本である.その条件は,iwanami.co.jp/moreinfo/02447…
土曜日 @doyoubi
「自己」とは「私のなかに生きるキリスト」のこと、「自我」とはそれをいわば映して成り立つ主体のことである。八木誠一「<はたらく神>の神学」岩波書店2012、P7。八木は「場」と「場所」の区別、「自己」と「自我」の区別をしているが故に西田幾多郎「場所」を超えていると主張している。
土曜日 @doyoubi
問題は我執的・我欲的に変質した自我を正常な自我に戻すこと。つまり「自己を映し表現する自我」に変えることである。これが「回心」ということだ。八木誠一「<はたらく神>の神学」岩波書店2012、P8。自我に働きかける神(場)に目覚め、我執・我欲を捨て、自己(キリスト)を映すのが回心。
土曜日 @doyoubi
ちなみに俺も、自己愛は魂=自分軸(苦楽、美醜、虚実)誠実に美しく楽しむ心、エゴは世間=他人軸(損得、好き嫌い、理非、善悪)にこだわる心ということね。利害や好き嫌いや理屈や善悪にこだわるのがエゴと書いている。togetter.com/li/43305 エゴと自己愛はどう違うの?
土曜日 @doyoubi
神(場)、神のはたらき(神の自己伝達作用つまり聖霊)、キリスト(すなわち人のなかではたらく神)は三にして一である。八木誠一「…神学」P45。これが八木の三位一体論。神を実体とは理解せず、キリストも人格主義的に捉えない場所論的神学だらこそこのような三位一体論が可能となる。
土曜日 @doyoubi
愛は「きよらかなやさしいこころ」であり、「損をしても真実を求め、語る誠実さ、無意味であっても生きる意欲」である。八木「…神学」P45。俺の人生方程式、人生=横軸(損得、好き嫌い、善悪、理非)+縦軸(苦楽、美醜、虚実)に対応づけると愛=実(きよらかなやさしいこころ)と言える。
土曜日 @doyoubi
コミュニケーションとは差別を克服する人格関係。八木誠一「…神学」P84 サマリア人の喩えは「我ー汝」直接経験の典型的な例とする。ここに「きよらかでやさしいこころ」の典型的な例とも言う。「自分自身が無限の神秘に根ざしているという感覚」←「山路きてなにやらゆかし菫草」芭蕉
土曜日 @doyoubi
自己・自我となって、自己のはたらきを現実化したパウロは、自己のはたらきに自分を超えたものと自分との作用的一を自覚したのであった。八木「…神学」P90 これを「自我ー自己」直接経験というそうだ。自我(損得、好き嫌い、善悪、理非)が自己(苦楽、美醜、虚実)の働きを自覚する事としておく
土曜日 @doyoubi
八木「…神学」P128 外的観察(例:指に刺さった刺)と内的感覚(例:棘による痛み)。外からだけ観察すれば神は存在しない、神は内的感覚(自覚、直覚)。客観的世界像(外的観察による)は現実の全面ではない。人間は客観的世界を認識し、それを操作するだけではない。棘による痛みもまた現実。
土曜日 @doyoubi
客観的世界像は現実の全てではない。人間の自覚にのぼる現実(苦楽、美醜、虚実)があり、それが人間を動かすという現実がある。つまり、自我(損得、好き嫌い、善悪、理非)が経済的論理的道徳的合理性と多数決(好き嫌い)によって肯定する現実であっても自己(苦楽、美醜、虚実)が否定する現実。
土曜日 @doyoubi
神は感覚・自覚・直覚。神=愛(きよらかなやさしいこころ)は誰の中にもあり、自我(損得、好き嫌い、善悪、理非)と自己(苦楽、美醜、虚実)を統合して人は生きるべき。人間は自覚的に「神のはたらき」を宿して、これを現実化する存在なのだと八木神学は言う。人はパンのみにて生きるに非ず。
土曜日 @doyoubi
人間は身体である。より正確にいえば、身体としての人格、人格としての身体である。まず私(自我)があって、その私が肉体を持っているのではない。「この身体が私である」というのが正しい。 自我は身体の一機能である。dcn.ne.jp/~skana4/yagise…
土曜日 @doyoubi
自我は身体の一機能(特定の状況のなかで諸情報を処理し、しかるべき選択をおこなう)であって、身体の中心でもなければ主でもない。身体は自我を生かす装置でもなく、自我の単なる道具でもない。しかし自我が自我自身にのみ関心を抱き、自我だけが自我を動かす唯一の現実となるとき、→続く
土曜日 @doyoubi
自我が自我自身にのみ関心を抱き、自我だけが自我を動かす唯一の現実となるとき、単なる自我とそのエゴイズムが成立する。さらに自我が身体を対象化して支配しようとするとき、身体は肉体すなわち自我の装置ないし道具におとしめられる。dcn.ne.jp/~skana4/yagise…
土曜日 @doyoubi
倫理の根本である「生命への畏敬」 blogs.yahoo.co.jp/morinohito24/1… 身体は自我を生かす道具ではなく、自我の単なる容器でもない。自我は身体の一機能である。意識し、選択する機能である。それぞれの状況で何を選択するかは身体・人格の全体性から決まるので、単なる自我が…
土曜日 @doyoubi
人間を船にたとえると、身体は船体、自己は船長、自我は操舵手。八木誠一「…神学」P159 
土曜日 @doyoubi
<神のはたらき>に目覚めるためにできることとは、<はたらく神>への信仰のなかで、おのずと生起する「無条件のコミュニケーションへの願い」を大切にするという、ごくあたり前のことである。必ず健康が保てるという確実な方法はないけれども、健康を維持するために何もできないわけではない。212
土曜日 @doyoubi
総評:神は実体ではなく作用(はたらき) doyoubi.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/p… 自我は身体の一機能、我執・我欲を抱えた「単なる自我」から「自己・自我」へ。身体は船体、自己は船長、自我は操舵手 doyoubi.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/p… 無条件のコミュニケーションへの願い

コメント

土曜日 @doyoubi 2014-05-31 04:40:46
八木誠一「<はたらく神>の神学」読了。第五章「統合ということ」は綺麗事に感じてしまい、半ば飛ばし読み。「自己」に目覚めるためには「こうすればよい」という方法はない、ただひたすら信じよとおっしゃるのみ。従って、俺の次なる課題は回心(自覚・直覚)。ああ、仏教の悟りと同じやんかあ、日暮れて道遠し…
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