『本能寺の変 431年目の真実』著者の先祖について

特になし。
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のいまご @noimago

祖父は、明田潔といって能笛の名手だったそうだが、この人が明治十二年ごろ明智家の系図をそえて、内務省に復姓を願い出た。これによると、光秀の妾腹の子、拾鶴丸は山科に逃れたが、その血統が伝わってきたものらしい。

2014-06-28 01:31:47
のいまご @noimago

豊臣、徳川時代には、姓を変えて、世をしのび、転々とした後、津軽藩に明田姓を名乗って仕え、明治に至ったものである。(明智滝朗「明智光秀は生きていた」『特集人物往来』1957年9月号)

2014-06-28 01:32:02
のいまご @noimago

もともと私は生れながら光秀の血を引いていたというわけではなく、多分二つか三つの頃だろうか。二男坊に生れた所以で因果を含められ、山階という姓から明智姓に転籍を命ぜられたまでで、(中略)祖母は津軽藩士明田鉄太郎という能管の名手の娘で、徳川幕府のお能役者山階滝五郎という人に嫁した。

2014-06-28 01:32:26
のいまご @noimago

此山階滝五郎忠泰は名人滝五郎と云われたほどの観世流能楽家である。(中略)祖母の兄明田潔という人物は私の生れぬ前に亡くなっているから、どんな人物だったかは知る由もないが、中々故実に通じていた人らしく、徳川幕府の時世には、まだ遠慮して明智姓を名乗らず、代々明田姓を称していたが、

2014-06-28 01:32:46
のいまご @noimago

明治政府になってから報知新聞が発行されていた頃だから、多分明治十一、二年の頃でもあろうか。「将来愚昧な子孫が明智光秀より連綿と続いた吾家系を認識せず、明田を本姓と誤まることあらば、祖先の霊に相済まん次第故、戸籍名を改め明智姓に復帰したし」と余計なことを心配して系図を添え、

2014-06-28 01:33:01
のいまご @noimago

内務省に改姓願出をした。その当時の報知新聞には系図の一端が載せられ評判になったそうだが、光秀の後裔たることが認められ、改姓が許可されたのである。之によると光秀には於寉丸という側室の子があって、難を山城の一隅に逃れ、神官の子として育てられたという。(明智滝朗『光秀行状記』)

2014-06-28 01:33:21
のいまご @noimago

本能寺の変に続く山崎の合戦の後、明智斬刀狩りの手を逃れた於寉丸という光秀の側室の子が京都山城に匿われ、神官の子として育てられました。以来、身を隠すために姓を明田と変えて代々ひっそりと暮らしてきました。

2014-06-28 01:33:45
のいまご @noimago

明治十年(一八七七)頃、私の曾祖父にあたる明田潔が系図などの証拠の品を添えて明智姓への復姓を願い出て、認められました。復姓の理由は「将来愚昧な子孫が明智光秀より連綿と続いた家系を認識せず、明田を本姓と誤ることがあれば祖先の霊に相済まない」とのことだったそうです。

2014-06-28 01:33:55
のいまご @noimago

この件は当時の報知新聞にも掲載され評判になったと聞いています。(明智憲三郎『本能寺の変 四二七年目の真実』)

2014-06-28 01:34:09
のいまご @noimago

離婚後みさは山階滝五郎と知合つて一子徳次郎を産んだ。(中略)滝五郎には明智氏出の妻がゐたが、子がなかつたのでみさとの間に生れた徳次郎を嫡子として、引取つた。(塩田良平『明治文学論考』)

2014-06-28 01:34:28
のいまご @noimago

十世山階徳次郎泰従とその後 (中略)十世には二人の男子があったが、長男は25歳で早世し、次男は九世の妻の実家明智家を嗣いだため、(表章『観世流史参究』)

2014-06-28 01:34:57
のいまご @noimago

明智潔には実子が無かった。また、観世山階流家元山階家に□(婚?)した妹にも子供がなく、幕末の侠妓・女歌人としても名声のあった松の門三草子の嬰子を山階家の養子とした。山階徳次郎である。山階徳次郎の次男、瀧朗は明智潔没後明智家断絶を憂い、明智姓を継いだ。

2016-04-17 14:48:45
のいまご @noimago

明智瀧朗は先に述べた祖父で、その長男義雄が私の父である。(明智洸一郎「光秀公と我が家系」『桔梗』第3号、1993年)

2016-04-17 14:51:52